音楽の最近のブログ記事
いつものように塩工房で塩のゴミ取り作業を
ノラジョーンズのCDを聴きながらしていたら
スタッフのタナカ君がふと
「ノラジョーンズが頭の中に流れている精神状態っていいよね」
と言って、
それからわたしは最近ずっと「自分の心の中で流れる音色」について考えていました。
(ちなみにノラジョーンズは美しく落ち着きのある声をもった女性ジャズ・ヴォーカリストです。
自分の中にはどんな音楽が流れている・・?
その言葉を聞いたときの自分は余裕があまりない状態で、
先日の「雑音」という日記でも気づき始めていたのだけれど、
自分が「心の中で穏やかな音楽を奏でることができない状態」
であることにその時はっきり気づき、不思議な衝撃を受けたのです
18歳のときに出会った大学の助教授に
「二十代をどう過ごすかで30以降が決まる」
と言われてから、ずっと心の奥底にその言葉があったように思う。
その時わたしは『二十台のうちはとことん自分を追い込もう』
と胸の中で決めたのだと思います。
だからわたしは音楽を聴く時も、なるべく自分を追い込もうとしてきたように思う。
「これはいい」と思ったものしか聴かないけれど、
心を極限まで揺らすために何度も何度も同じ曲を聴き続けたりしてきた。
「自分を痛めつけてるし、これって本当に意味があるのかな?」
と何度も疑問に思ったけれど、それでも。
いま、仕事がまいにちふつうに忙しくて、
仕事のことを考えながら暮らしているだけで心が常にすごく急いでいて、
それでも音楽を聴く姿勢はあまり変えないまま来たので、
心の中の音色はどんどん荒れていってしまっていたのだ。
このやり方をいま、変えていこうと思う。
踊る上で、踊り手は音楽に「踊らされる」のではなく、
自分の中にある音色とともにあるべきなのだとずっと思ってきたのに
日常ではそうしてこなかった。
その大切さを日々の中でもちゃんとかみしめたいと思う。
自分の心の中の音色をちゃんと聴いて、ととのえていこう わたしの手で。
わたしは、三十歳になりました
きのうは東京から友だちのとんちゃんが遊びに来てくれて、
お祝いにcoccoの「こっこさんの台所」というCDをプレゼントしてくれた。
音色のことをずっとかんがえていたからなんだかすごく運命的だな と思った。
ひとりの時に大切に聴きたいと思ってます。
友だちや家族の笑顔で祝ってもらえる誕生日はほんとうにほんとうに嬉しい
みなさんから毎日たくさんの力をもらっています
ありがとうございます
これからも、よろしくお願いします!!!
そうしたら頭の中に沢山の雑音があって、それで頭もからだもぼうっとしているのだというのがわかった。
音楽を必要とする時期と、なんにも聴きたくない時期とが私にはあって
いまは聴きたくない・ただ身の回りの蝉や扇風機の音で充分な時期なのだと思う。
雑音を少しずつからだから排出したい
それが完了したらまたなにか新しい音色を欲するのだろう
あぁ
蝉の音に埋もれそう
夏ですね
いまは文章をしっかり書く時間はとれない状態です。
書きたいことは色々とあって、
熊本での友人の結婚式で踊った話を書きかけているところで、
熊本の友人に過去生と未来生をみてもらって魂の不調和を調和に向かわせる方法をおしえてもらった話についても書きたい。
田中泯さんについての文章も書きたい。
でもきっといまはそういう時期じゃない、
自分の内面ときちんとひとりで向かい合って心の問題と向き合い、
目の前にあるものときちんと向かい合って、
ひびを歩いていくこと
夫に安心して仕事をしてもらうために、
ちゃんと日常を生きることがなによりだいじ
きょうの昼は町の公民館でまりありあさんと交換稽古を初めてやってみます。
まりありあさんにベリーダンスをおしえてもらって、
わたしは虫丸さんのWSでならったことを伝えてみるつもりで。
どうなるかなー準備ぜんぜんできとらんので
最近よく聴いている音楽は
宇多田ヒカルさんの「Prisoner of Love」です
この前でたばかりのニューアルバムに入っている曲。
このうた、恋愛のうたとしてもとれるけれど、
彼女は友人についてうたっているのではないかとわたしはかってに思った
彼女の心の支えはいまや恋人という特権的なパートナーに求めるものではなく、じぶんのほんとうに伝えたいことをどこか遠くで受けとって心で感じてくれる誰かとつながることにあるのではないかと思う
そんなふうに誰かとつながれるから 生きてゆける
おとといの夜は福岡の西南学院大での「七つのピアソラ」ライブに出かけてきた
わたしが見たそのライブの告知文は以下のようなもの。
・・・
「七つのピアソラ」ツアー
http://
書家・乾千恵がピアソラへの思いを渾身に綴った画文集「七つのピアソラ」。
http://
そこから広がった「千恵」の輪のアーティスト達による無二のライブ!
出演:
ジャン・サスポータス(ダンス)
オリヴィエ・マヌーリ(バンドネオン)
齋藤徹(コントラバス)
ゲスト:トリオ・ロス・ファンダンゴス(いわつなおこ、秋元多惠子、谷本仰)
※ダンスのジャンは23日東京で千秋楽だったピナ・パウシュの「ヴッパタール舞踊団」に出演のため来日、その後この「日本の仲間」とのツアーに参加。
※世界的に活躍する齋藤徹のコントラバスは、弦楽器であり、打楽器であり、歌うクジラであり、疾走する馬である。
ピアソラをテーマに、しかし即興的な、何が飛び出すか判らない一夜だけの空間です。
九州では福岡公演のみ!逃すともう無い機会!
・・・
これはどうもやばめなライブだぞ~~という予感を受けとり行って参りました!
息子は親戚にあずかってもらい、娘だけ連れて行きました。
ライブ後半は娘をtaniseさんがロビーでみていてくださってライブを堪能させてもらいました
ひとのご厚意でわたしが音楽やダンスに触れる素晴らしい時間を過ごせること
ほんとうにものすごくありがたく、
この感謝をなにか別の形で返していきたいと切に感じました
そしてライブについてですが、
もうほんっとうに素晴らしかった
その場に存在できたことを幸せだと思えるライブ、なかなかないことでした
オリヴィエ・マヌーリさんのバンドネオンと齋藤徹さんのコントラバスは時に打楽器にもなりながら呼応して展開していく
ジャン・サスポータスさんのダンスは、「気」が研ぎ澄まされていて、踊り始めた瞬間に空気がものすごい変容をおこす。
かといって大げさなものでなく、
ありとあらゆるものを越えたひとだからこそたどりつきうる「ありのまま」の踊りのように感じた。
それぞれの曲の背景になるテーマもなにも知らず聴いているのに、
「音そのもの」「からだそのもの」のつくりだすなにかにひっぱられひきつけられ、
そして思わぬ幕切れにハッと胸をつかれる
頭で考えるのでなくからだで感じられる世界
後半はゲストのトリオ・ロス・ファンダンゴスが入り、
躍動的な音が踊り、遊び、ぐんと体感的に音が胸に迫ってくる
日々磨かれている技術に裏打ちされてこその「自由」さ
みていて何度も涙がながれてしまった
「このひとたちみたいな大人になりたい」と思った
そして、みていて突然頭に湧き上がってきた言葉があった
「表現は吹き抜ける一陣の風である」
吹き抜ける風や、金色の雨や、低くたれこめた曇り空には言葉はなく説明はなくただありのままにダイナミックにそこにあり、
でもそのもので完全に極まっていてうつくしい
「これを表現するんだ」なんてことじゃない
風そのものが与えるもの
それを受けとったように感じたのだった
アンコールを求める拍手は心から「どうかもう一曲!」と思い求める気持ちだった。ほかのお客さんも同じ気持ちだったんじゃないかな
「もう少しだけでもこの完全に満ち足りて溢れた場が続いて欲しい、聴かせて欲しい」と思った
終演後の受付の売り場のお客さんの熱気も「この感動をなにかの形で持ち帰りたい」という気持ちだったのじゃないかな
わたしもそういう気持ちでなにを買い求めるか考えたすえ、「月つき人ひと石いし」という乾千恵さんの書が入った絵本を持って帰ることにした
その絵本の「風」のページにはこう書いてあった
「かぜが きのうを きょうにつなぐ」
「天空の蜂」(東野圭吾著)を読み終わった
内容は
「爆発物を積載した超大型ヘリを高速増殖炉に墜落させる。それを防ぎたければ日本中の原発を即刻使用不能にせよ」
「天空の蜂」と名乗る犯人が仕組んだ恐るべき犯行。超大型ヘリはすでに原子炉上空千数百メートルでホバリングを始めていた。
というように始まっていくサスペンス小説でした(amazonより)
政府・自衛隊・技術者・被害者...様々な人間の本音と建前が錯綜している状況が真に迫っていました。
現実の原発を取り巻く状況もこの本に書かれているように複雑なのだと思います。
原発やヘリコプターの仕組みについてかなり詳しく語られていて、
私はそういう部分は流し読みでしたが、
理系に強い人ならもっと深く愉しめるんじゃないかな。
理系に弱くても人間ドラマとしてや原発について考える視点でも十分得られるものが多い内容です。
たくさんの人に読んで欲しいなと思いました。
興味のある人はぜひ!
この本を読んで気になったことは色々とありました。
・原発労働者の癌や白血病発症について、
・軍事訓練に使われる飛行機やヘリが爆発物を積んで原発に墜落する可能性について(特に六ヶ所村再処理工場)
・ナトリウム火災、使用済み燃料プール火災の危険性について
・原子炉の非常停止をする人の避難場所について
・軍事用ヘリコプターの技術進歩により可能になる無人操縦について
・テロで原発を攻撃される可能性について
など 少しずつ疑問を解決していきたいと思う。
あと、読んでいて気になったキイワードは「沈黙する群衆」というものでした
事件の犯人の三島は自分の子ども・智弘の死が自分が原発で働いているのが理由のいじめだったのではないかと疑念を持ち、いじめに関わった子どもを訪ねて回り、以下のような心境に到りました
「そして彼は思い出すのだった。いじめの有無を確認するために、かつてのクラスメートたちに会った時のことだ。彼らのあの仮面のような顔が瞼に蘇った。
あの顔は子供だけのものではないのだ、と気づいた。大人になってからも、多くの者はあの仮面を手放さない。やがて彼らは「沈黙する群衆」を形成する。
答えを得たと三島は思った。もはや疑いの余地はない。智弘は彼らに殺されたのだ。
本当の闘いはそれから始まった。三島は考え続けた。何かをしなければならないと思った。しかし自分に何ができるだろう。沈黙する群衆の、あの不気味な仮面に向かって、石の一つでも投げつけることができないだろうか。」
三島のこの心情は、私も心の奥のほうに持っている怒りの感情と同じものだと思いました。
そして、自分も「沈黙する群衆」そのものにあらゆる場面でなっているとも思った
小説の中で、原発を停めるのでエアコンの使用を控えるよう街宣車が回る中でカーテンを閉めて「自分の家くらいは大丈夫だろう」とエアコンを使い続け室外機が回っている家々の様子の描写もありました。
どんなに温暖化が叫ばれてもエアコンを使わずに過ごせる人はほとんどいない
それとそんなに遠い話ではないと思う。
最近、「快楽のアナクロニズム」についてよく考えています。
わたしは、人間は「もっと欲しい」という思いが作用して進化してきたのではないかと勝手に思っています。
「もっと長く」「もっと強く」「もっと多く」と
その欲求や願いのために色々なものを生み出してきた
でもそれによって得られる快楽はそろそろ頭打ちになってきているのではないか
快楽を得ようとすることで自滅し始めてないか と感じています
ハリウッドで成功して、整形を重ねて高級な食べ物を食べて広いプールがある家に住んで、それが幸せなのか?
覚醒剤に中学生・高校生が栄養剤感覚や痩せ薬感覚で手を出したりして社会問題になっているそう。
気持ちよけれさえすればいいのだと思ってしまったらそこまで行ってしまうのもわかるような気がする
わかる けど進み続けるのか それとも どこかでそこまで行くのを止めるのか
快楽はどこまでいけるのか
それをみなが進む道から一旦降りる
けど
自分の道でちがう方法でどこまで快楽が得られるかを追求する
時代遅れを 時代錯誤を あえて選ぶ
それが必要なんじゃないかと思う。
ある意味
快楽を求めることはやめちゃいけない
でももっと自分のからだ自体がもつ力を取り戻さなければ 取り返さなければ からだひとつで得られるはずの快楽
あるいはしずかに自分の想いだけで充足すること
もっと考えていきたい
まだまだ ここから ここから
今日聴いている曲は中村中さんの「友達の詩」です
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性同一性障がいである中村中さん、
でも障がいという言葉でくくってしまえることではないような気がする
なぜならこの人は美しい
強さもたおやかさも同時に持っている。
いま白州正子さんの「両性具有の美」という本を読んでいるけれど、
この人はそういう美をもっている人なのではないかと思った
やっと金木犀に出遇うことが出来た
いまわたしのこころは色んな方向に伸びていこうとしている
こうやって手をぐっと伸ばしたいひと
わたしにとって必要なひと
わたしは触手をのばす
好きなひとはたくさんいる
必要なひとがたくさんいる
「恋人」でもなく「友達」でもなく「夫婦」でもなく
わたし と そのひと だけで成り立つ独自の関係性
それがひとつひとつあるだけ
「わたし」と「そのひと」だけの在り方があるはず
縦糸と横糸のようにたくさんの糸が布を織り上げるために必要 なのだ
だからわたしはこころをとじこめてはいけないんだ
Bank Band 『糸』
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元ちとせの「語り継ぐこと」という曲だ
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なぜこれを何度も聴きたくなるのか、
多分自分になにかを促したいんだと思う
最近、ネット上で改憲論や日本の軍武装を主張する若者の意見をよく目にする。
それ自体の是非はとりあえず置いておいて、
戦争が実際に生み出した悲惨さや苦しみを彼らはリアルに感じることが出来ているのだろうかと考えてしまう。
先日の日記に関連して「美は乱調にあり」という言葉を言った大杉栄というアナーキストとその恋人の伊藤野枝についてちょっと調べていたのだけど、
「甘粕事件」という事件について初めて知り、戦慄してしまった
彼女は、関東大震災から間もない頃に、大杉栄、大杉の甥の橘宗一(6歳)とともに憲兵大尉・甘粕正彦に連れ去られて、その日のうちに憲兵 (日本軍)構内で虐殺されて、遺体は畳表で巻かれ古井戸に投げ捨てられたという。
彼女も大杉氏も絞め殺され共に肋骨が何本も折れており、胸部の損傷から激しい暴行を加えられていたことが後にわかったそうだ。
伊藤野枝は結婚制度を否定して、戦後ウーマンリブの結婚制度否定を50年早く提起したひとだったそうだ
戦時中に憲兵のやることはあまりにひどかったという話はよく聞いていたし、
こんなのは序の口で虐殺は数限りなく行われおびただしい血が流れたのだと思う
しかし、自分がある種多少のシンパシーを覚えるような活動をしていた伊藤野枝という人がこのような目にあっていたことを知りショックだった
自由を殺そうとするものは何か、
わたしはもっと知らなければならないことがある、
そして語り継ぐことについて考えなくてはならないと思う。
戦争を知る老人たちが次々と死んでいく。
それに深い危機感を感じている
掘り下げて行きたいと思う
わたしは実は戦争の悲惨さを直視するのは子どもの頃からとても苦手で、苦痛だった
映画などを見ると苦しくて目がまわり息が詰まってしまうこともあった
けど、逃げちゃ駄目だ
ちゃんと見ないと。
「痛みが欲しい」という言葉は不謹慎なのかもしれない
だけど求めて手に入れようとしなければ、
いつまでたってもぬるま湯だ 忘れてしまうんだ
だからあえて欲しいと書いた
でも焦らずちゃんと毎日生きて、暮らして、 からだで考えて 歩いていく
