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風葬

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自分の醜さを

砂浜に横たえて、

風葬したい



欲望や悪は宿命づけられている部分があるように思う。

以前、「人間は『これがもっと長く続いて欲しい』と願った(もしくは執着した)ために猿から人間への一歩を踏み出した」んじゃないかと勝手に考えたことがあったのだけれど、
その欲望と踊り続けるのが人間の宿命なのか?

一方で、回避できる悪もある気がする。児童買春するのはやめとこうとか。
そういうのは選択できる余地がある可能性が高い。

選択できる状況なのか、
ほかの選択肢があるかどうかはとても重要な点だろうなと思う。

逃げ道のない状況は人間を「それしかない」と追い込むので。

「違いを見分ける賢さ」
その賢さを是非得たいところだ。

弱っちい生き物である人間には、実はそれが唯一の宝刀なのかもしれないと思った。

*今回の記事は友人の舞踏家美希さんから意見を加えて作成した文章になっています。

 

欲望と悪

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皆既日食.jpg
最近の考え事が集約されてきて、「欲望と悪」について考えてみようかという所にいます。

いま私は「人生でなにをしていきたいか」ということが大分明確になってきていると思うけれど、なにか落ち着ききれない部分があり達観には到らず、「これはなんだろう?」と感じていました。

最近、音色について考えていたためにお経に興味を持ち、兼ねてから気になっていた観音経についての本や、瀬戸内寂聴の般若心経についての本を読んだりしていたのですが、日常に仏教的価値観を取り入れるのはどうも腑に落ちず、寂聴さんの本は読むのを中断してみました。

やっぱりあまりに理想主義なものはまだ若い私には早いのか?と思い、
いつものように江國香織やよしもとばななや川上弘美や山本文緒を出してきて色々読んでいたけど、好きだけどやっぱりどうも腑に落ちない部分が残って着地できない。

とりあえず瀬戸内寂聴さんの若い時の小説でも読んでみるかと思いつつも、図書館の本の中であてもなく漂流してみてました。

そして家の手持ちの本の中からふと村上龍の「イビサ」が出てきて、
「あぁ今までこの小説とは向き合うのを逃げてたんだよな‥」と思い、でもいま自分がひっかかっている部分はこの小説のテーマに近いものなのかもしれないと思いました。

人間の欲望は時に醜悪で目をそむけたくなる。
だから「自分はそこから既に下りています」という地点に立っているような顔をしたくなる。
でも生きている限り自分はあらゆる欲望と無関係ではいられない。

人間には三大欲というものがあって、生命力と欲望は切り離せない関係にある。

ヤン・ソギルの「闇の子供たち」はタイの幼児売春を生々しく描写した作品だが、私はこれを初めて書店で読んだ時吐き気がした。欲望を発露させる人間があまりに醜悪で、出来ればこの本はみなかったことにして逃げ去りたかった。
でも逃げる訳にいかず、その本を買った。でもいまだにちゃんと全部読めていない。

イビサでも登場人物はあらゆる欲望に走り、最終的に手足を切断されるような事態に向かう。
その描写が生々しく目をそむけたくなるのだ。

だけどこれは現実の一側面だということを知っているからこそ、これほど吐き気がするのだ。

例えば欲望の揺れ幅があるとして、極端な欲望が幼児買春だったりドラッグや虐殺だとして、一般的とされている欲望が衣食住欲や合意の元のセックス(風俗を含む)、低い欲望だが美しいとされているのがお釈迦様が悟りを開く前に食べたミルク粥や川での行水であるとする。

多くの人は極端な例を悪とし、一般的な例以下を善なる欲望とするだろう。

しかしこれらには無数の「境界例」が存在する。

例えば、
・風俗で本番NGなのにちょっと無理やりやっちゃった
・恋人だった人にふられてつきまとってしまう
・妻子ある人を好きになる
・食べ残された「まだ食べられる」物が大量に捨てられる
・部下をきつく叱ってストレス発散する上司
・いじめを見てるけどみないふりしている人
・動物実験
・好色で金持ちの僧
・ロリコン系エロマンガやビデオが好き

これらになってくると人によって微妙に意見が違ってくるものだと思う。

そして極端な例と思われる次元でもやはり境界例が存在するのだ。

例えば
・貧しさと絶望に追い込まれ幼児売春のブローカーをしている人
・虐殺を自分はやらないけどそばで見ているひと(「イビサ」でも女性の体がチェーンソーで斬られているのを憂鬱そうに眺めている男が「お前にはわからないかも知れないが、こういうヴィデオが世の中を救ったりするのだ、オレは不愉快だが多くの人々を救うためだからしょうがない」と言っている)
・戦争で嫌々ながら敵を殺したり、死にかけの人を置き去りにする
・自爆テロで敵国の兵士を殺す

これらはどうだろうか

悪の基準は絶対的ではなく相対的なものなのだと思う。

例えばわたしが子どもにたこさんウインナーを作る行為は、
子どもが喜ぶから善だと言うひともいれば、
ウインナーは体に悪いから悪だと言う人もいるだろう。

状況によって善悪の基準はたやすく変わるのだ。

手元にいまパウロ・コエーリョの「悪魔とプリン嬢」という本があって、
「条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす」
という考えを持った旅人が描かれているらしい。

この本を読んでまたじっくり考えてみようと思っている


これらの主題にたどり着いたのは、今度参加するすんクジラブラザーズのライブでカルメンの曲があるからよろしくねー
と言われたのもきっかけのひとつ。

以前読んだアンナ・カレーニナやカルメンのように「恋に生きた女」は最終的に死に至る。

傲慢と純粋と美もまた紙一重なのだろう


最終的には「わたしだけの基準」を見出だすしかないのだろうとも思うけれど、境界で揺らぐ人間のメカニズムについてじっくり考えていってみたいと思います。

このテーマを考えるのに役に立ちそうなオススメの本をご存知のかたはおしえてもらえたら嬉しいです。

サドとバタイユはチェックしようかなぁと思っています。

ご意見もいただけたら嬉しいです


写真は2009年7月22日の皆既日食の写真です*
 特に本文の内容とは関係ありません^^;
(でもこの写真を載せたいと思ったのはなにか直観的に関係しているのかも。
最近神秘思想家のグルジェフの思想に触れたからかな?)
 
数週間前のある日、
いつものように塩工房で塩のゴミ取り作業を
ノラジョーンズのCDを聴きながらしていたら
スタッフのタナカ君がふと

「ノラジョーンズが頭の中に流れている精神状態っていいよね」

と言って、
それからわたしは最近ずっと「自分の心の中で流れる音色」について考えていました。
(ちなみにノラジョーンズは美しく落ち着きのある声をもった女性ジャズ・ヴォーカリストです。
たなか君が好きなアーティストで、わたしの趣味ではないです。)


自分の中にはどんな音楽が流れている・・?


その言葉を聞いたときの自分は余裕があまりない状態で、
先日の「雑音」という日記でも気づき始めていたのだけれど、

自分が「心の中で穏やかな音楽を奏でることができない状態」
であることにその時はっきり気づき、不思議な衝撃を受けたのです


18歳のときに出会った大学の助教授に
「二十代をどう過ごすかで30以降が決まる」
と言われてから、ずっと心の奥底にその言葉があったように思う。

その時わたしは『二十台のうちはとことん自分を追い込もう』
と胸の中で決めたのだと思います。

だからわたしは音楽を聴く時も、なるべく自分を追い込もうとしてきたように思う。
「これはいい」と思ったものしか聴かないけれど、
心を極限まで揺らすために何度も何度も同じ曲を聴き続けたりしてきた。
「自分を痛めつけてるし、これって本当に意味があるのかな?」
と何度も疑問に思ったけれど、それでも。


いま、仕事がまいにちふつうに忙しくて、
仕事のことを考えながら暮らしているだけで心が常にすごく急いでいて、
それでも音楽を聴く姿勢はあまり変えないまま来たので、
心の中の音色はどんどん荒れていってしまっていたのだ。


このやり方をいま、変えていこうと思う。


踊る上で、踊り手は音楽に「踊らされる」のではなく、
自分の中にある音色とともにあるべきなのだとずっと思ってきたのに
日常ではそうしてこなかった。

その大切さを日々の中でもちゃんとかみしめたいと思う。


自分の心の中の音色をちゃんと聴いて、ととのえていこう わたしの手で。


わたしは、三十歳になりました


きのうは東京から友だちのとんちゃんが遊びに来てくれて、
お祝いにcoccoの「こっこさんの台所」というCDをプレゼントしてくれた。

音色のことをずっとかんがえていたからなんだかすごく運命的だな と思った。
ひとりの時に大切に聴きたいと思ってます。


友だちや家族の笑顔で祝ってもらえる誕生日はほんとうにほんとうに嬉しい


みなさんから毎日たくさんの力をもらっています

ありがとうございます



これからも、よろしくお願いします!!!




雑音

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からだがだるくて仕様がなかったので「なんでだろう?」と思って、床に仰向けになって目を閉じてからだの声を聴こうとしてみた

そうしたら頭の中に沢山の雑音があって、それで頭もからだもぼうっとしているのだというのがわかった。

音楽を必要とする時期と、なんにも聴きたくない時期とが私にはあって
いまは聴きたくない・ただ身の回りの蝉や扇風機の音で充分な時期なのだと思う。

雑音を少しずつからだから排出したい

それが完了したらまたなにか新しい音色を欲するのだろう 


あぁ
蝉の音に埋もれそう



夏ですね



これまでわたしは色んな「正しさ」に捉えられてきたのだと思います。

「母性愛の正しさ」
「良妻賢母の正しさ」
そして最近は「信心の正しさ」にも捉えられそうになっていた。

ここのところ、色んな正しさに押しつぶされそうになっていた


そんな中、自分の心の中にいる小学生高学年の頃の人格「M(私の本名)」と会話をしてみた。

これは私が悩む時に秘かに相談をする自分の中の人格のようなものです。

昔に比べると自分に統合されていて境界線がぼやけていますが、それでもいざという時に頼りにしている人格でもあります。

それは私の中の「まっすぐな眼」「曇らない眼」のような存在なのだと思います。

全ての状況をみているのは結局自分だけだから自分で判断せざるを得ない状況下だけど総体が混乱しているという時に、この人にアドバイスを求めるのです。

そうしたら、このままではただ潰れるだけだと気づき、潰されかけている中心の主体を探ってみた。

すると、馬鹿なほどの幼児的な感性のままひた走る、それがわたしの中心だということを感じられた


わたしはそのことを否定しかかっていた
「大人」になるためには「コドモ」を捨てなくてはならないと思っていた

しかしそれは無理だった
それは芯となる骨を抜いてしまうことに等しかったのだ

わたしにとって「コドモ」というのは一掃できるものではなく、自分の本質的な成り立ちに関わることだったのだ


あらゆる「正しさ」の中で揉まれ、ゆらぎ、一旦は全てを持っていかれそうになりながらも、

自分の感性に触れたものだけ連れてまた走る

それを螺旋のように繰り返してく

そうやって少しずつ昇っていく

わたしはそうやってずっと生きてきたのだ


老成しない人生、形式美の完成をみない人生


わたしはそれをよしとしてきた
これがわたしの生きる方法だったのだ


夫にそう気づいたことを話したら、
「そうでないととてもついてはこられないよ。『正しさ』なんて無視して走っていくんだから」 と言った。


そうやって、

わたしは 生きていこう


きのう、自分のこれからの行く先について考えていて、
やっと答えのようなものがみえたように感じた。

答えというか、『夢』のビジョンみたいなものがみえた気がした

母親としても中途半端で、
踊り手としても中途半端で、
妻としても中途半端、
染織りを始めたいけれど不器用、

そんなわたしをこれまで自分でさげすんできた所があったのだと思う


だけど実は、「母」も「踊り手」も「妻」も「染織家」もただ人を分類分けするためのカテゴリーに過ぎなくて、
わたしは『まさやん(masayang)』という道を行くしかなくて。


そして降りてきた言葉は 『光と闇を織る者』


ただそのために日々歩いていこう、
誰かにとってはなはだ中途半端なやり方にしか見えなくても
ちゃんと自分に道がみえていれば、歩んでいける

それがみえたら、これまで胸の中にずっとつかえていて息を吸いにくくしていたものがすっかりなくなっていた
吸気がすーっと胸の中に入っていく
この感覚は初めてだった
もしかしたら生まれて初めてかな

昨日に比べるとまた吸気の通りがまた少しわるくなっている
不安が生まれたり、自信が揺らいだりしてくるから。
でも前ほどじゃない

この感覚を忘れないように書き留めておきたくて書いています

ここからは「自分の道をみる場所に戻ること」
「自分の中心に常に戻るようにすること」
「力が入って固まっているからだの力を抜いていく方法を探ること」

に入っていこうと思います

おとといの夜は福岡の西南学院大での「七つのピアソラ」ライブに出かけてきた

わたしが見たそのライブの告知文は以下のようなもの。

・・・

「七つのピアソラ」ツアー
http://web.mac.com/travessia115

書家・乾千恵がピアソラへの思いを渾身に綴った画文集「七つのピアソラ」。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0241570/top.html
そこから広がった「千恵」の輪のアーティスト達による無二のライブ!

出演:
ジャン・サスポータス(ダンス)
オリヴィエ・マヌーリ(バンドネオン)
齋藤徹(コントラバス)

ゲスト:トリオ・ロス・ファンダンゴス(いわつなおこ、秋元多惠子、谷本仰)

※ダンスのジャンは23日東京で千秋楽だったピナ・パウシュの「ヴッパタール舞踊団」に出演のため来日、その後この「日本の仲間」とのツアーに参加。
※世界的に活躍する齋藤徹のコントラバスは、弦楽器であり、打楽器であり、歌うクジラであり、疾走する馬である。
ピアソラをテーマに、しかし即興的な、何が飛び出すか判らない一夜だけの空間です。
九州では福岡公演のみ!逃すともう無い機会!

・・・

これはどうもやばめなライブだぞ~~という予感を受けとり行って参りました!


息子は親戚にあずかってもらい、娘だけ連れて行きました。
ライブ後半は娘をtaniseさんがロビーでみていてくださってライブを堪能させてもらいました

ひとのご厚意でわたしが音楽やダンスに触れる素晴らしい時間を過ごせること
ほんとうにものすごくありがたく、
この感謝をなにか別の形で返していきたいと切に感じました


そしてライブについてですが、
もうほんっとうに素晴らしかった
その場に存在できたことを幸せだと思えるライブ、なかなかないことでした

オリヴィエ・マヌーリさんのバンドネオンと齋藤徹さんのコントラバスは時に打楽器にもなりながら呼応して展開していく

ジャン・サスポータスさんのダンスは、「気」が研ぎ澄まされていて、踊り始めた瞬間に空気がものすごい変容をおこす。
かといって大げさなものでなく、
ありとあらゆるものを越えたひとだからこそたどりつきうる「ありのまま」の踊りのように感じた。

それぞれの曲の背景になるテーマもなにも知らず聴いているのに、
「音そのもの」「からだそのもの」のつくりだすなにかにひっぱられひきつけられ、
そして思わぬ幕切れにハッと胸をつかれる
頭で考えるのでなくからだで感じられる世界

後半はゲストのトリオ・ロス・ファンダンゴスが入り、
躍動的な音が踊り、遊び、ぐんと体感的に音が胸に迫ってくる
日々磨かれている技術に裏打ちされてこその「自由」さ

みていて何度も涙がながれてしまった

「このひとたちみたいな大人になりたい」と思った

そして、みていて突然頭に湧き上がってきた言葉があった

「表現は吹き抜ける一陣の風である」


吹き抜ける風や、金色の雨や、低くたれこめた曇り空には言葉はなく説明はなくただありのままにダイナミックにそこにあり、
でもそのもので完全に極まっていてうつくしい

「これを表現するんだ」なんてことじゃない
風そのものが与えるもの

それを受けとったように感じたのだった


アンコールを求める拍手は心から「どうかもう一曲!」と思い求める気持ちだった。ほかのお客さんも同じ気持ちだったんじゃないかな
「もう少しだけでもこの完全に満ち足りて溢れた場が続いて欲しい、聴かせて欲しい」と思った

終演後の受付の売り場のお客さんの熱気も「この感動をなにかの形で持ち帰りたい」という気持ちだったのじゃないかな
わたしもそういう気持ちでなにを買い求めるか考えたすえ、「月つき人ひと石いし」という乾千恵さんの書が入った絵本を持って帰ることにした

その絵本の「風」のページにはこう書いてあった



「かぜが きのうを きょうにつなぐ」




NHK朝ドラの「ちりとてちん」を最近ずっと観ていて、それが昨日終わった。

上方落語界で初めての女流落語家として色々な出来事を乗りこえて成長していく主人公の姿。

最終的に主人公は子どもが出来て落語の常打ち小屋が完成した時点で
落語家としてでなく「おかみさん」として生きていくことを決意した。

わたしはそれを観て、「あぁやっぱりそれを選ぶのか」
と初め「やはりそれが誰もが納得できる結論なのか?」と
自分に照らして胸が痛くなってしまったのだけれど、
ちがう見方で主人公の決断を見つめてみた

主人公は物語の終盤で、
「自分がこのまま創作落語を続けていくことがほんとうに上方落語を継いでいくということなのか?」
という問いを持っていた。
そして「おかみさん」「母親」として継いでいくことを選ぶのだ。

そして、自分に照らして考えたことは、
「ただ色んな場所で踊るというだけを続けていても私は自分の本当の目的は達成できないだろう」ということ、
そして
「『わたしが継ぎたいこと』はなんなのかを明確にしなくちゃいけない」ということだった。

恥も外聞もなく書いてみよう


わたしが継ぎたいこと

・藤條虫丸さんや田中泯さんのように、農と踊りを同時におこなっていくこと

・臍下丹田を中心とした身体の使い方と呼吸を基本としたからだの在り様を突き詰めて伝えていくこと

・自然のリズムとともに誰もが生きられる方法を探していくこと

・「なにももたない庶民」が生き残ってなにがしかの自由を手にして生きていく道を探ること

・「地方」や「田舎」を元気にしていくこと

・多民族が共生するための道を拓くことに関わっていくこと

目先のことに捉われずにちゃんと遠くの目標を見据えて
日々すこしずつ願晴って歩いていこう と思う

 

結果的にまわりからみれば「おかみさん」として表舞台にあがることない生き方になったとしても、
ほんとうの目標をみすえてそのために生きることができさえすれば、
自分の名前が世に出なくてもかまわないのだと思う。

機会があればこれからも人前でも踊っていきたいけれど、
それはあとでついてくることなんだ。

裏方さんがいてくださってはじめて舞台に立てることを忘れちゃいけないと思う

 

大学時代に舞台照明をやってた時は舞台に立つのとはまたちがう喜びがあった

「ひかりをあてる」という視点をなにをしていても忘れたくないと思う

いま夫の職場のひとつである馬事公苑にWWOOF(ウーフ、住み込みで仕事をして食事と住む場所の提供を受けるもの。お金を介さないやり取りで成立する)で韓国人のソンちゃんという女の子が来ている。
ソンちゃんは日本語がとっても上手。

昨日はそのソンちゃんがフリータイムということで、彼女とうちの家族で坊津の海辺にある塩工房に遊びに行ってきた。

「坊津の華」というお塩を作っているその工房は、日高さんというご夫婦が営んでいるもの。
電気もなにもない草原を自分たちで拓いて、建物も自分でたて、塩作りも他人について習うことなく自分達流で方法を作り上げていったのだそう。

この場所にいると不思議ととてもこころが和む。
日高さんご夫婦の人柄のあたたかさ、しなやかさがその場にひたひたと満ちているようで、塩を焚きあげるための薪を燃やす火がたえることなくそこにあって、ゆっくりと何日もかかって出来上がっていく塩のうつくしさを感じて。


工房の近くに生えているかずらでクリスマスリースを作らせてもらった。夫は一輪挿しの籠も編んでました。

太さがそれぞれちがうかずらをまとめて、ひねったり絡めたりしながら円にしていく

でこぼこしたものをそのままで絡めていく面白さ。

以前から織物をやってみたいという気持ちがあって卓上織り機を通信講座でやろうとしたけど、子どもがもう少し大きくなってからにしようと、いまは押入れにしまっている。

やっぱりいつかはまた織ることをしてみたいな と思った。


夜はその場所で鍋をしてもらうことになり、
みんなであれこれ準備してあたたかい鍋を囲んで、いっぱい食べて、お話して。
誰もがそこでみんながいい時間を過ごせるように心を砕いていて、そんな時間。

わたしはそのことにとても泣きたいくらい感動していて、
でもやはり完全にはやすらげない自分もいて
そのことに哀しさを感じた


たぶんわたしには踊らなければ埋められないものがあるのだろうと思う

そしてそれはそれでかまわないのだろうと思う

日高さんの奥さんが
「やりたいことなんでもやってみたらいいのよ、ナチュラルに」
と言った

大切だと思うものをつくるため力を尽くして、やれるだけやって やさしいもので出来るだけ心を満たして、
そしてそれでも心の中にあるさみしさ やりきれなさ
それはあったっていいんじゃないか 

帰りに寄った温泉で露天風呂に入っているときソンちゃんが
「なにかを知りたいと思い続けていればそれは知ることができると思います」
と言ってくれた

こたえはシンプルなこと

それはしっていて それを受け入れるのは 最終的に意思と勇気によること

わたしの目指したい暮らしのかたち 半農半芸というもの。

一緒に暮らすことを考えていたみちちゃん親子との暮らしに終止符を打つ中で、
自分があらゆる人を大きい愛で包むようなラブアンドピースの精神を持つというのとはちがう道を行くのだなと感じた。
もっと沈静したもの ひとりの静けさが基礎となったもの そこからはじまるもの

それは実はまるでちがうものではないのかもしれないのだけど


いまはわたしはもっとひとりにならないといけない

それが必要なことなのだろうと思う


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