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舞踏家の大野一雄さんが6月1日に亡くなった。

8年位前に大野一雄さんの横浜の稽古場での大野慶人さんのワークショップに参加して御姿を少しみかけたことがあった。
もうその頃大野一雄さんは要介護状態だったけれど前日にワークショップに行った美希さんは踊っている所を観られたと喜んでた。

大野さんの著書「稽古の言葉」を読み返していた。

たくさんの言葉がからだに響くなかで、この言葉に目が留まった


『ラブレターを書く。
頭で書いたってだめですよ。
体全体で書く。
魂で書く。
何で書いたっていいんですよ。
恋人と、会話しながら。
書くときはそこにおるんです。
足で書いたっていいんでしょう。
ラブレターを足でもって書けたらずいぶんいいだろうと思うんですよ。
そんな踊り見たいですね。
何か知らないけれど気持ちが、ありがとう、何なのかわからないけれど、助かった、
こういう踊りのほうがいいと思うのです。』


大野一雄さんの言葉を、踊り 魂を

舞踏をするわたしは、わたしの踊りで、引き継いでいく



少年と悪

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少し前にNHKの「爆笑問題ニッポンの教養」という番組で
ロシア文学の紹介者の亀山郁夫さんがドストエフスキーについて爆笑問題と語り合うのを観てとても感銘を受けて、
このことについて書かないといけないなと思っていました。

そんな昨日、本屋に入ったら二冊の本と出遭った。
まず目に入ったのは
「福田君を殺して何になる」という本で、
光市母子殺害事件の事件当時未成年だった福田被告が書いた手紙などが取り上げられている内容だった。

さっと目を通しただけだが、
本が問いかけている
「この未熟な青年を殺すことが根本的な問題解決なのか?」
ということは胸にひっかかり、
また書店を歩き出したらまた一冊の本が目に留まった。

一家四人惨殺事件を起こした当時19歳だった被告(今は死刑囚)のドキュメンタリー「19歳」という本だった。

この死刑囚の起こした事件は、
強盗目的で侵入した家で老女や幼女を含む四人を少女の目の前で殺してしかもその少女をその場で犯すという酷いもので、
捕まった後もその男は全く反省のない態度だったという。

「読みたくない」という気持ちがありつつも、
その本に引き込まれ大半の内容を立ち読みした。
その男の生い立ちが特に気になったからだ。

その男は遊び人の父親の借金や暴力が原因で両親が離婚し夜逃げをしたり、貧乏が原因でいじめられたりしていたという。

しかし男の弟は真面目に生きているし、
もっと厳しい状況の中で道を外れず生きている人はいるのだから
生い立ちのせいには出来ないと本の中で著者も男に伝えている。

その通りだと私も思う。
しかし生い立ちを見ていると何箇所か道を外れるターニングポイントが目に留まった。

付き合っていた恋人との仲を親に引き裂かれたこと。
「家に電話はないです」と言って教師がクラスの皆と笑ったエピソード。

それらは些細なこととも言えるかもしれないが、
もしそれらの場面で誰か男を助ける人間がいればなにかが違ったのかもしれないと感じるものがあった。

これらの事件は本当に酷いもので、
もし自分が事件の関係者だったら、こんな本は見るのも嫌だろうし、
被告人は死刑で当然だと断じるに違いないと思う。

そうした遺族の方々の感情に同調したくなる自分の感情を抑えながら、私は問題の根本をみつめてみたいと感じた。


ドストエフスキーの「罪と罰」は、
引きこもりがちな苦学生のラスコーリニコフが
「天才は正義を実現するために犯罪をおかす権利がある」
という考えに捕われて金貸しの老女とその妹を殺すというストーリーだ。
「自分はほかの人間より多くのことを許された人間なんだ」という一文もある。

ドストエフスキーの描く時代は農奴開放後で混沌とした時代。
開放されたことで自由になったが
『自由は金がかかる』という事実があり、
すさまじい犯罪が起こってきだしたのだという。

その時代のロシアの広漠とした大地と現代のネット社会はどこか重なると亀山氏は指摘する。

「秋葉原通り魔殺傷事件の青年を法は裁けますか?」とも亀山氏は問題提起した。


「おわかりになりますか?これ以上行き場がないってことがいったい何を意味するか?」(罪と罰)


「罪と罰」のラストで、ラスコーリニコフは彼が汚したよごれた大地に口づけをして救われる

還ることが出来る大地を見出だすことができれば人間は救われるのかもしれない。
ただ、大地を見出だせない、還る場所も全くない人間は他人と繋がることを放棄せざるを得ない状況に追い込まれる。


最近近所に自然花(じねんか)という子育てサポートスペースが出来て、
そこの人達と親しくさせてもらっている。

自然花のスタッフの方達は児童養護施設で長年働いてきた経験があって、その当時の話を聞いたことがある。

児童養護施設に来る子ども達は家庭が崩壊して最後の行き場所としてそこに来ていて、
スタッフさんは昼夜を問わず子どもの脱走などで呼び出され、
ナイフを向けられた経験もあるという。

子ども達がそこまで追い詰められる前に救う場をつくりたいという志で自然花はつくられたのだそうだ。

夫が代表をしているNPOのやっていきたいことは
自然花と重なる部分が多いので
色んなことを協力してやっていきたいと思っています。

そして、仕事のない地方に新しい名物や雇用を作り出したり、
物々交換のネットワーク作りや「仕事と宿・食事を交換する働き方」なども模索したりしていきたいと思う。

機械のように使い捨てにされるのではない、人間として働ける道を拓いていきたい。

修学旅行の受け入れで中高生に触れる機会も大事にしていきたい。
その一日の経験が彼らの何かを変える可能性があるかもしれないのだから。

ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで主人公アリョーシャは 叫ぶ


「もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。」


彼らの心にそういうものを残す可能性に賭けたいし、
例えドストエフスキーに遠くおよぶことなどなくても
少しでもわたしにできる表現方法 たぶん踊ること で「闇の中にある光」を解き明かしていきたい。

それがどんなに小さな一歩であっても。


そんな風に、思う。



欲望と悪

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皆既日食.jpg
最近の考え事が集約されてきて、「欲望と悪」について考えてみようかという所にいます。

いま私は「人生でなにをしていきたいか」ということが大分明確になってきていると思うけれど、なにか落ち着ききれない部分があり達観には到らず、「これはなんだろう?」と感じていました。

最近、音色について考えていたためにお経に興味を持ち、兼ねてから気になっていた観音経についての本や、瀬戸内寂聴の般若心経についての本を読んだりしていたのですが、日常に仏教的価値観を取り入れるのはどうも腑に落ちず、寂聴さんの本は読むのを中断してみました。

やっぱりあまりに理想主義なものはまだ若い私には早いのか?と思い、
いつものように江國香織やよしもとばななや川上弘美や山本文緒を出してきて色々読んでいたけど、好きだけどやっぱりどうも腑に落ちない部分が残って着地できない。

とりあえず瀬戸内寂聴さんの若い時の小説でも読んでみるかと思いつつも、図書館の本の中であてもなく漂流してみてました。

そして家の手持ちの本の中からふと村上龍の「イビサ」が出てきて、
「あぁ今までこの小説とは向き合うのを逃げてたんだよな‥」と思い、でもいま自分がひっかかっている部分はこの小説のテーマに近いものなのかもしれないと思いました。

人間の欲望は時に醜悪で目をそむけたくなる。
だから「自分はそこから既に下りています」という地点に立っているような顔をしたくなる。
でも生きている限り自分はあらゆる欲望と無関係ではいられない。

人間には三大欲というものがあって、生命力と欲望は切り離せない関係にある。

ヤン・ソギルの「闇の子供たち」はタイの幼児売春を生々しく描写した作品だが、私はこれを初めて書店で読んだ時吐き気がした。欲望を発露させる人間があまりに醜悪で、出来ればこの本はみなかったことにして逃げ去りたかった。
でも逃げる訳にいかず、その本を買った。でもいまだにちゃんと全部読めていない。

イビサでも登場人物はあらゆる欲望に走り、最終的に手足を切断されるような事態に向かう。
その描写が生々しく目をそむけたくなるのだ。

だけどこれは現実の一側面だということを知っているからこそ、これほど吐き気がするのだ。

例えば欲望の揺れ幅があるとして、極端な欲望が幼児買春だったりドラッグや虐殺だとして、一般的とされている欲望が衣食住欲や合意の元のセックス(風俗を含む)、低い欲望だが美しいとされているのがお釈迦様が悟りを開く前に食べたミルク粥や川での行水であるとする。

多くの人は極端な例を悪とし、一般的な例以下を善なる欲望とするだろう。

しかしこれらには無数の「境界例」が存在する。

例えば、
・風俗で本番NGなのにちょっと無理やりやっちゃった
・恋人だった人にふられてつきまとってしまう
・妻子ある人を好きになる
・食べ残された「まだ食べられる」物が大量に捨てられる
・部下をきつく叱ってストレス発散する上司
・いじめを見てるけどみないふりしている人
・動物実験
・好色で金持ちの僧
・ロリコン系エロマンガやビデオが好き

これらになってくると人によって微妙に意見が違ってくるものだと思う。

そして極端な例と思われる次元でもやはり境界例が存在するのだ。

例えば
・貧しさと絶望に追い込まれ幼児売春のブローカーをしている人
・虐殺を自分はやらないけどそばで見ているひと(「イビサ」でも女性の体がチェーンソーで斬られているのを憂鬱そうに眺めている男が「お前にはわからないかも知れないが、こういうヴィデオが世の中を救ったりするのだ、オレは不愉快だが多くの人々を救うためだからしょうがない」と言っている)
・戦争で嫌々ながら敵を殺したり、死にかけの人を置き去りにする
・自爆テロで敵国の兵士を殺す

これらはどうだろうか

悪の基準は絶対的ではなく相対的なものなのだと思う。

例えばわたしが子どもにたこさんウインナーを作る行為は、
子どもが喜ぶから善だと言うひともいれば、
ウインナーは体に悪いから悪だと言う人もいるだろう。

状況によって善悪の基準はたやすく変わるのだ。

手元にいまパウロ・コエーリョの「悪魔とプリン嬢」という本があって、
「条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす」
という考えを持った旅人が描かれているらしい。

この本を読んでまたじっくり考えてみようと思っている


これらの主題にたどり着いたのは、今度参加するすんクジラブラザーズのライブでカルメンの曲があるからよろしくねー
と言われたのもきっかけのひとつ。

以前読んだアンナ・カレーニナやカルメンのように「恋に生きた女」は最終的に死に至る。

傲慢と純粋と美もまた紙一重なのだろう


最終的には「わたしだけの基準」を見出だすしかないのだろうとも思うけれど、境界で揺らぐ人間のメカニズムについてじっくり考えていってみたいと思います。

このテーマを考えるのに役に立ちそうなオススメの本をご存知のかたはおしえてもらえたら嬉しいです。

サドとバタイユはチェックしようかなぁと思っています。

ご意見もいただけたら嬉しいです


写真は2009年7月22日の皆既日食の写真です*
 特に本文の内容とは関係ありません^^;
(でもこの写真を載せたいと思ったのはなにか直観的に関係しているのかも。
最近神秘思想家のグルジェフの思想に触れたからかな?)
 
みなさん、お久しぶりです。
 
アメリカ大統領、オバマ氏に決まりましたね。

有色人種で初めての大統領が選ばれたということは、
日本で暮らしている私には想像がつかないほど画期的なことなのだろうと思います。
ネット上で関連のニュースを見ていたら色々考える所がありました。

金融危機などは多分もう歯止めがきく状況ではないのでしょうが、
これをきっかけに少しでも世界の動向がいい方に向かえばいいなと思う。

それと、小室哲哉さんの逮捕についても関連記事を読んでいました。
色々感じるところがあります。

有名になりすぎることで失うものも沢山あるのだろうな と思います。
最近、宇多田ヒカルさんのことがとても好きなので、彼女についても考えました。

お金を得たことで失ってしまったもの 自由に外に出たり発言することが出来なくなること 多くの人の批判に常にさらされ続けること

どうか彼女はお金をめぐる人々の黒い渦に巻き込まれてしまいませんように と心の中で祈りました。


昨日はオバマ氏の開票速報を精神科の待合室で観ていました。

ここのところ仕事での人間関係で色々とあって精神面の浮き沈みが大きくなったので受診しました。
以前一度カウンセリングを受けたことがある病院です。

診てもらったら、「あなたの場合、問題自体が解決しないことには不安は解消されないし強い抗うつの治療は必要ないと思うけれど、不安を抑えられて眠れない時にも使える軽めの薬で様子をみて、薬がなくなったら取りに来る時にでも心理士と相談ができるようにしてみましょうか」
とのことでした。
出してもらったお薬はデパス0.5mg錠です。

「誰か相談できる人がいるのは大事ですよ」と言われ、
ほんとうにそうだなとしみじみ思った。
病院に行く前日に友人が家を訪ねてきてくれて喋ったらほんとうにすごく救われたから。

友人の存在を大事にして、ネット上での貴重な人間関係も大事にして、
心理士さんに相談できる状況も作っておいて、
お薬もいざという時のために手元に置いておいて、
そうやって自分を守るようにしたい。
そう思った。


その病院のすぐ近所に、精神病を抱えている人たちをスタッフとして雇って運営されているお店があって、そこでランチを食べることにした。

そのお店のスタッフの人に久しぶりに逢って「今度ここでなにかの時に踊ってください」と言ってもらってとても嬉しかった。

そのお店にあった本が日記のタイトルの
「安心して絶望できる人生」(向谷地生良 浦河べてるの家 著)
でした。

前から気になっていた本で、この機会に買ってみることにした。
精神病を抱えた人たちの起業についてのドキュメントのよう。
「期待されない会社づくり」など興味深い起業理念があるよう。
ゆっくり読んでみようと思います。


いま、枕崎の超イケてるバンド「すんクジラブラザーズバンド」の方たちとやり取りをしています。

新酒祭りという枕崎でのお祭りに出演されてるのをみたのですが、
枕崎弁で繰り出す超オモローで素敵な世界に一撃でやられて即ファンになって今度メンバーの方にお逢いしにいこうと。

呆けすとらや私の大学時代のゼミ教官に通じるなにか、があるような予感がしています。

もし機会があれば少しでも舞踏で共演させていただければいいな・・と勝手に夢を描いています。

いい繋がりになっていくといいな。 


こんな長い文をさいごまで読んでくださったみなさん
ありがとうございます


できるだけのことをして、いまを乗り越えたい。



今日を生きていこうと 思います



最近私が原発に興味があると言っていたためにチャガタイさんに紹介してもらった
「天空の蜂」(東野圭吾著)を読み終わった

内容は

「爆発物を積載した超大型ヘリを高速増殖炉に墜落させる。それを防ぎたければ日本中の原発を即刻使用不能にせよ」
「天空の蜂」と名乗る犯人が仕組んだ恐るべき犯行。超大型ヘリはすでに原子炉上空千数百メートルでホバリングを始めていた。

というように始まっていくサスペンス小説でした(amazonより)

政府・自衛隊・技術者・被害者...様々な人間の本音と建前が錯綜している状況が真に迫っていました。
現実の原発を取り巻く状況もこの本に書かれているように複雑なのだと思います。

原発やヘリコプターの仕組みについてかなり詳しく語られていて、
私はそういう部分は流し読みでしたが、
理系に強い人ならもっと深く愉しめるんじゃないかな。
理系に弱くても人間ドラマとしてや原発について考える視点でも十分得られるものが多い内容です。

たくさんの人に読んで欲しいなと思いました。
興味のある人はぜひ!

この本を読んで気になったことは色々とありました。
・原発労働者の癌や白血病発症について、
・軍事訓練に使われる飛行機やヘリが爆発物を積んで原発に墜落する可能性について(特に六ヶ所村再処理工場)
・ナトリウム火災、使用済み燃料プール火災の危険性について
・原子炉の非常停止をする人の避難場所について
・軍事用ヘリコプターの技術進歩により可能になる無人操縦について
・テロで原発を攻撃される可能性について
など 少しずつ疑問を解決していきたいと思う。

あと、読んでいて気になったキイワードは「沈黙する群衆」というものでした

事件の犯人の三島は自分の子ども・智弘の死が自分が原発で働いているのが理由のいじめだったのではないかと疑念を持ち、いじめに関わった子どもを訪ねて回り、以下のような心境に到りました

「そして彼は思い出すのだった。いじめの有無を確認するために、かつてのクラスメートたちに会った時のことだ。彼らのあの仮面のような顔が瞼に蘇った。
 あの顔は子供だけのものではないのだ、と気づいた。大人になってからも、多くの者はあの仮面を手放さない。やがて彼らは「沈黙する群衆」を形成する。
 答えを得たと三島は思った。もはや疑いの余地はない。智弘は彼らに殺されたのだ。
 本当の闘いはそれから始まった。三島は考え続けた。何かをしなければならないと思った。しかし自分に何ができるだろう。沈黙する群衆の、あの不気味な仮面に向かって、石の一つでも投げつけることができないだろうか。」

三島のこの心情は、私も心の奥のほうに持っている怒りの感情と同じものだと思いました。

そして、自分も「沈黙する群衆」そのものにあらゆる場面でなっているとも思った

小説の中で、原発を停めるのでエアコンの使用を控えるよう街宣車が回る中でカーテンを閉めて「自分の家くらいは大丈夫だろう」とエアコンを使い続け室外機が回っている家々の様子の描写もありました。

どんなに温暖化が叫ばれてもエアコンを使わずに過ごせる人はほとんどいない

それとそんなに遠い話ではないと思う。


最近、「快楽のアナクロニズム」についてよく考えています。

わたしは、人間は「もっと欲しい」という思いが作用して進化してきたのではないかと勝手に思っています。
「もっと長く」「もっと強く」「もっと多く」と
その欲求や願いのために色々なものを生み出してきた

でもそれによって得られる快楽はそろそろ頭打ちになってきているのではないか
快楽を得ようとすることで自滅し始めてないか と感じています

ハリウッドで成功して、整形を重ねて高級な食べ物を食べて広いプールがある家に住んで、それが幸せなのか?

覚醒剤に中学生・高校生が栄養剤感覚や痩せ薬感覚で手を出したりして社会問題になっているそう。

気持ちよけれさえすればいいのだと思ってしまったらそこまで行ってしまうのもわかるような気がする

わかる けど進み続けるのか それとも どこかでそこまで行くのを止めるのか

快楽はどこまでいけるのか

それをみなが進む道から一旦降りる
けど
自分の道でちがう方法でどこまで快楽が得られるかを追求する

時代遅れを 時代錯誤を あえて選ぶ

それが必要なんじゃないかと思う。

ある意味
快楽を求めることはやめちゃいけない
 でももっと自分のからだ自体がもつ力を取り戻さなければ 取り返さなければ からだひとつで得られるはずの快楽

あるいはしずかに自分の想いだけで充足すること


もっと考えていきたい

まだまだ ここから ここから


今日聴いている曲は中村中さんの「友達の詩」です
http://www.youtube.com/watch?v=OY83IdPJZNw

性同一性障がいである中村中さん、
でも障がいという言葉でくくってしまえることではないような気がする
なぜならこの人は美しい
強さもたおやかさも同時に持っている。
いま白州正子さんの「両性具有の美」という本を読んでいるけれど、
この人はそういう美をもっている人なのではないかと思った

自由がある所

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tsuneちゃんが日記で
女優の小林聡美さんがインタビューで自由について話していたのを紹介していて、
それが気になっていたのでグラツィアという雑誌を立ち読みしてインタビューを読んでみた

そしたらなんだか最近わたしが考えていたことど真ん中のことが書いてあった

小林聡美さんはこんな風に語っていた(正確ではありません)

小林さん「自由はねぇ・・ないですよ。なくないですか?
だって純粋な自由って人を顧みず自分のやりたいように生きる、っていうことですよね。ないですよ、そんな自由は。
もうあれですよね、心の中にしかない。心の中で瞬間、思う自由。それしかない」
インタビュアー「大人になると自由度が広がるものかと・・」
小林さん「いや、若いときはなにも知らないがゆえに、自由気ままにやってられたところがあると思うんです。で、大人になると気持ち的にはこう、ゆるーく広ーくなるんだけど、なんかその分、いろんなことがわかってしまって、受け止めなければいけないものがたくさん出てきて、それが自由なのか、自由じゃないのか」
インタビュアー「なるほど、大人にとっての"自由"は意味壮大で、何をもって"自由"とするかは自分次第なのだ」

‥ということでした
わたしが目を奪われたのは、

>もうあれですよね、心の中にしかない。心の中で瞬間、思う自由。それしかない

という部分でした。

自分の心を変えることがどうしても出来なくて
自分を責めてき続けてきたこと、
罪悪感を感じ続けてきたことがある

そんな自分を認めること

傲慢には決してならないように。
だけど心の中だけではそんな自分を認めてもいい
それをもってわたしは自分を"自由"とする

そう感じ出していた自分の心と同じ言葉を、そこに、
みつけたのだった

ゴンギツネさんに紹介してもらった本

「洟をたらした神」吉野せい 著

について書こうと思います。

実をいうと感想がまとまっていません
でもまとめることを諦めました
きっと答えが出るのはずっと先になると思ったからです
仕様がないので、どんな風に悩んだかについて書こうと思います。

この本の著者は詩人の夫とともに開拓農民として生きてきて
七十歳をこえてから筆をとった女性です。
本には15の短編が入っています

ひとつ短編を読むごとにずしりと余韻がのこり次の短編にすぐに移ることができませんでした
今まであまり他の本に感じたことのない読後感でした
(いくつかの短編に対してだけですが)

純粋に感動した部分はたくさんあるのですが
本の内容に対して詳しい感想をいうのはやめます

読んで考えたことを書きます

この本を読む前にわたしが知りたいと思っていたことは

「思い通りにならない土を耕す人の自我とはどんなものか」
「じぶんを個としてうちださず生きた女性の行く先」

のようなことだった

しかしこうしたことは本を読んですぐに答えが出ることではなかった。
やはりわたしが七十にならなければわからないことなのかもしれません

ただ、この本を読んでわかったことは、
ただただ土を耕し続ける人生を生きても目が透き通っているひとはいるのだということだった


土を耕すこと について思うこと

わたしはそのうち土を耕して暮らしたいなと思っています。
それはお金にたよらず暮らすにはそれがいいなと考えたというのもあるし、
日本はたぶん貧しくなるのは時間の問題で、
自分で食料を得る手段を確保することが必要だろうと思っているからというのもあります。

しかしわたしは消費社会と縁を切ることはできません

最近、舞踏をはじめた土方巽という人の本も読んでいるのですが、この人とは生きた時代がちがうのだからそれをどう受けとめるべきか悩みます。

土方巽はわたしの祖父と同じ年に生まれた人です
秋田の田舎に育った土方巽と、生きた原風景はかなりちがう

わたしの家は兼業農家でお金はあまりない家庭
高卒で若くして結婚した両親・そして祖父が骨身を削って働いて育ててくれた
だからわたしには土を耕す人のことも少しわかる
だけどわたしの生きてきた日々は
ファミコン・エアコン・携帯・インターネット・テクノ・コンビニ
などと関わらずにはいられないものだった

わたしの師匠が以前言っていたけれど、舞踏はその日の朝に食べたものもすべて出てしまうもの なのだ

だからわたしは土方巽とはちがう原風景を抱えて踊ることと向き合わなければならない
吉野せいさんとはちがう背景をもって土にたどりつかなくてはならない

まだまだ答えはでないけど
この課題とじっくりむきあっていきたいと思う

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