アイディアの最近のブログ記事
先日、武道家・日野晃さんの身体表現ワークショップを受けました。
日野晃氏は世界的振付師ウィリアム・フォーサイスと共に創作したりもしてる方。
日野さんは物凄く優しい方で驚き感動しました!
【日野晃さんにした質問】
私「よく知らぬ人と向き合う時に起こる恐怖感にどう対処したら?」
日野氏「恐怖感は頭の中で作り出した幻想。それは存在し無い!」
私「相手が嫌なこと避けたくて遠慮が出てしまうのですが」
日野氏「他人が何を嫌かなどわかるはずない。気にしても仕様がないやろ。」
日野晃さんと私のやり取りを見ていた人が後で
「日野先生は著書で『相手に本当に嫌われてる』場合は察知しないと危険だが、
そうでなければまずは自分から働きかけてみることが必要だ、って書いてましたよ」と教えてくれた。他人と踊るのが苦手な私の頑なだった部分が解けた気がした。
日野晃さんは「他人の考えてることなどわからない」と私に言ったが、ワークショップでは他人と密な接触を求められる。
目をひたとみつめたりぴたりと寄り添い、一瞬でも気を抜くと足元掬われる。
「頭で考えずに意識を研ぎ澄まして他人を感じる」ということなのかもしれない。
武道家・日野晃WSで、二人組で腕をねじ上げられたのを振りほどくワークがあった。
握られた箇所に力入れても振りほどけない。
力が届いた終点から回転をつけてほどくことで相手が吹き飛ぶ。これは頭で考えるとうまくいかない。うまくいく瞬間は思考でなく意識だけになる感覚。口で言う程簡単じゃない。
日野晃さんに「毎日同じ稽古か違う稽古かどちらがいい?」と問うた人いて
日野氏は「両方するのがいい。毎日胸骨操作等の中心軸となる同じ稽古やりながら色んな稽古もやっていく。それぞれの人に違う道筋ある。正解はない。」
日野氏が流派やジャンルを超えた存在だからこそ言えることなのだろう。
日野晃WSは受けに来る人の種類はコンテンポラリー・バレエ・武道・舞踏・下半身麻痺で車椅子の方・身体表現に興味ある方等多伎に渡る。
世界中色んな場所でも行われているそう。
「対抗しないこととしての武道」という日野氏のメソッドが広がる意味は大きいと感じる。
武道家・日野晃の「「武道身体」で生きる!対人技の真髄」を少しずつ読んでいる。
日野氏は語る。
「強くなる」ことが武道の目的ではなく強くなれるはずもないと。
しかし「強くなりたい」と思った自分の内面に潜む問題を問題として捉えた時、自覚された時、武道はその手段として姿を見せるものなのだと。
「自分という人間の精神的・心理的・生理的脆さ、その影響受ける思考や運動能力、そしてそれらを統括する自意識レベルを丸裸にする為にある武道。それは自分自身の思考回路の作り替え。極端に言えば、見栄や体裁、虚栄心、固定観念等が作り出す思考の壁を壊すところから始めなければならない。」日野晃
日野氏のメソッドをもっと深く体感していってみたいと感じている。
それで、こないだ家の周辺の道端で収穫したハヤトウリの皮を畑に埋めに行って、「あ、田の神様のとこにいこうかな」
とふと思いつきました。
うちの畑の奥のほうに田の神様が在るのです。
田の神様とは鹿児島の至る所にあるお地蔵さまみたいなもので、「たのかんさぁ」と呼ばれ親しまれています。
その辺に咲いてた菜の花を一輪お供え用に摘んで歩いて行きました。
きょうはすばらしい青空。
うちの畑近くのたのかんさぁはちいさな四角い石に「田神」と彫ってあるだけで人の形はしていません。
でも裏に梵字らしきものが彫ってあります。
今度なんていう意味か調べてみよう。
お花を供えて手を合わせて祈りながら風の音を聞いていたら あ、ここで踊ってみようかな と思った
それで踊りはじめた
ひさしぶりに踊った
誰にみせるためでもない
でもたのかんさぁや風や木があって そこに呼吸するわたし
最近、これからどうやって踊りを続けていったらいいかあまりはっきりしない感じだったのだけど、
「あぁこれでいいんだな」と思った
踊ることはわたしの生きることとはなれていきはしないのだ
またここでも踊ろうと思う
欲望や悪は宿命づけられている部分があるように思う。
以前、「人間は『これがもっと長く続いて欲しい』と願った(もしくは執着した)ために猿から人間への一歩を踏み出した」んじゃないかと勝手に考えたことがあったのだけれど、
その欲望と踊り続けるのが人間の宿命なのか?
一方で、回避できる悪もある気がする。児童買春するのはやめとこうとか。
そういうのは選択できる余地がある可能性が高い。
選択できる状況なのか、
ほかの選択肢があるかどうかはとても重要な点だろうなと思う。
逃げ道のない状況は人間を「それしかない」と追い込むので。
「違いを見分ける賢さ」
その賢さを是非得たいところだ。
弱っちい生き物である人間には、実はそれが唯一の宝刀なのかもしれないと思った。
*今回の記事は友人の舞踏家美希さんから意見を加えて作成した文章になっています。

いま私は「人生でなにをしていきたいか」ということが大分明確になってきていると思うけれど、なにか落ち着ききれない部分があり達観には到らず、「これはなんだろう?」と感じていました。
最近、音色について考えていたためにお経に興味を持ち、兼ねてから気になっていた観音経についての本や、瀬戸内寂聴の般若心経についての本を読んだりしていたのですが、日常に仏教的価値観を取り入れるのはどうも腑に落ちず、寂聴さんの本は読むのを中断してみました。
やっぱりあまりに理想主義なものはまだ若い私には早いのか?と思い、
いつものように江國香織やよしもとばななや川上弘美や山本文緒を出してきて色々読んでいたけど、好きだけどやっぱりどうも腑に落ちない部分が残って着地できない。
とりあえず瀬戸内寂聴さんの若い時の小説でも読んでみるかと思いつつも、図書館の本の中であてもなく漂流してみてました。
そして家の手持ちの本の中からふと村上龍の「イビサ」が出てきて、
「あぁ今までこの小説とは向き合うのを逃げてたんだよな‥」と思い、でもいま自分がひっかかっている部分はこの小説のテーマに近いものなのかもしれないと思いました。
人間の欲望は時に醜悪で目をそむけたくなる。
だから「自分はそこから既に下りています」という地点に立っているような顔をしたくなる。
でも生きている限り自分はあらゆる欲望と無関係ではいられない。
人間には三大欲というものがあって、生命力と欲望は切り離せない関係にある。
ヤン・ソギルの「闇の子供たち」はタイの幼児売春を生々しく描写した作品だが、私はこれを初めて書店で読んだ時吐き気がした。欲望を発露させる人間があまりに醜悪で、出来ればこの本はみなかったことにして逃げ去りたかった。
でも逃げる訳にいかず、その本を買った。でもいまだにちゃんと全部読めていない。
イビサでも登場人物はあらゆる欲望に走り、最終的に手足を切断されるような事態に向かう。
その描写が生々しく目をそむけたくなるのだ。
だけどこれは現実の一側面だということを知っているからこそ、これほど吐き気がするのだ。
例えば欲望の揺れ幅があるとして、極端な欲望が幼児買春だったりドラッグや虐殺だとして、一般的とされている欲望が衣食住欲や合意の元のセックス(風俗を含む)、低い欲望だが美しいとされているのがお釈迦様が悟りを開く前に食べたミルク粥や川での行水であるとする。
多くの人は極端な例を悪とし、一般的な例以下を善なる欲望とするだろう。
しかしこれらには無数の「境界例」が存在する。
例えば、
・風俗で本番NGなのにちょっと無理やりやっちゃった
・恋人だった人にふられてつきまとってしまう
・妻子ある人を好きになる
・食べ残された「まだ食べられる」物が大量に捨てられる
・部下をきつく叱ってストレス発散する上司
・いじめを見てるけどみないふりしている人
・動物実験
・好色で金持ちの僧
・ロリコン系エロマンガやビデオが好き
これらになってくると人によって微妙に意見が違ってくるものだと思う。
そして極端な例と思われる次元でもやはり境界例が存在するのだ。
例えば
・貧しさと絶望に追い込まれ幼児売春のブローカーをしている人
・虐殺を自分はやらないけどそばで見ているひと(「イビサ」でも女性の体がチェーンソーで斬られているのを憂鬱そうに眺めている男が「お前にはわからないかも知れないが、こういうヴィデオが世の中を救ったりするのだ、オレは不愉快だが多くの人々を救うためだからしょうがない」と言っている)
・戦争で嫌々ながら敵を殺したり、死にかけの人を置き去りにする
・自爆テロで敵国の兵士を殺す
これらはどうだろうか
悪の基準は絶対的ではなく相対的なものなのだと思う。
例えばわたしが子どもにたこさんウインナーを作る行為は、
子どもが喜ぶから善だと言うひともいれば、
ウインナーは体に悪いから悪だと言う人もいるだろう。
状況によって善悪の基準はたやすく変わるのだ。
手元にいまパウロ・コエーリョの「悪魔とプリン嬢」という本があって、
「条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす」
という考えを持った旅人が描かれているらしい。
この本を読んでまたじっくり考えてみようと思っている
これらの主題にたどり着いたのは、今度参加するすんクジラブラザーズのライブでカルメンの曲があるからよろしくねー
と言われたのもきっかけのひとつ。
以前読んだアンナ・カレーニナやカルメンのように「恋に生きた女」は最終的に死に至る。
傲慢と純粋と美もまた紙一重なのだろう
最終的には「わたしだけの基準」を見出だすしかないのだろうとも思うけれど、境界で揺らぐ人間のメカニズムについてじっくり考えていってみたいと思います。
このテーマを考えるのに役に立ちそうなオススメの本をご存知のかたはおしえてもらえたら嬉しいです。
サドとバタイユはチェックしようかなぁと思っています。
ご意見もいただけたら嬉しいです
写真は2009年7月22日の皆既日食の写真です*
いつものように塩工房で塩のゴミ取り作業を
ノラジョーンズのCDを聴きながらしていたら
スタッフのタナカ君がふと
「ノラジョーンズが頭の中に流れている精神状態っていいよね」
と言って、
それからわたしは最近ずっと「自分の心の中で流れる音色」について考えていました。
(ちなみにノラジョーンズは美しく落ち着きのある声をもった女性ジャズ・ヴォーカリストです。
自分の中にはどんな音楽が流れている・・?
その言葉を聞いたときの自分は余裕があまりない状態で、
先日の「雑音」という日記でも気づき始めていたのだけれど、
自分が「心の中で穏やかな音楽を奏でることができない状態」
であることにその時はっきり気づき、不思議な衝撃を受けたのです
18歳のときに出会った大学の助教授に
「二十代をどう過ごすかで30以降が決まる」
と言われてから、ずっと心の奥底にその言葉があったように思う。
その時わたしは『二十台のうちはとことん自分を追い込もう』
と胸の中で決めたのだと思います。
だからわたしは音楽を聴く時も、なるべく自分を追い込もうとしてきたように思う。
「これはいい」と思ったものしか聴かないけれど、
心を極限まで揺らすために何度も何度も同じ曲を聴き続けたりしてきた。
「自分を痛めつけてるし、これって本当に意味があるのかな?」
と何度も疑問に思ったけれど、それでも。
いま、仕事がまいにちふつうに忙しくて、
仕事のことを考えながら暮らしているだけで心が常にすごく急いでいて、
それでも音楽を聴く姿勢はあまり変えないまま来たので、
心の中の音色はどんどん荒れていってしまっていたのだ。
このやり方をいま、変えていこうと思う。
踊る上で、踊り手は音楽に「踊らされる」のではなく、
自分の中にある音色とともにあるべきなのだとずっと思ってきたのに
日常ではそうしてこなかった。
その大切さを日々の中でもちゃんとかみしめたいと思う。
自分の心の中の音色をちゃんと聴いて、ととのえていこう わたしの手で。
わたしは、三十歳になりました
きのうは東京から友だちのとんちゃんが遊びに来てくれて、
お祝いにcoccoの「こっこさんの台所」というCDをプレゼントしてくれた。
音色のことをずっとかんがえていたからなんだかすごく運命的だな と思った。
ひとりの時に大切に聴きたいと思ってます。
友だちや家族の笑顔で祝ってもらえる誕生日はほんとうにほんとうに嬉しい
みなさんから毎日たくさんの力をもらっています
ありがとうございます
これからも、よろしくお願いします!!!
有色人種で初めての大統領が選ばれたということは、
日本で暮らしている私には想像がつかないほど画期的なことなのだろうと思います。
ネット上で関連のニュースを見ていたら色々考える所がありました。
金融危機などは多分もう歯止めがきく状況ではないのでしょうが、
これをきっかけに少しでも世界の動向がいい方に向かえばいいなと思う。
それと、小室哲哉さんの逮捕についても関連記事を読んでいました。
色々感じるところがあります。
有名になりすぎることで失うものも沢山あるのだろうな と思います。
最近、宇多田ヒカルさんのことがとても好きなので、彼女についても考えました。
お金を得たことで失ってしまったもの 自由に外に出たり発言することが出来なくなること 多くの人の批判に常にさらされ続けること
どうか彼女はお金をめぐる人々の黒い渦に巻き込まれてしまいませんように と心の中で祈りました。
昨日はオバマ氏の開票速報を精神科の待合室で観ていました。
ここのところ仕事での人間関係で色々とあって精神面の浮き沈みが大きくなったので受診しました。
以前一度カウンセリングを受けたことがある病院です。
診てもらったら、「あなたの場合、問題自体が解決しないことには不安は解消されないし強い抗うつの治療は必要ないと思うけれど、不安を抑えられて眠れない時にも使える軽めの薬で様子をみて、薬がなくなったら取りに来る時にでも心理士と相談ができるようにしてみましょうか」
とのことでした。
出してもらったお薬はデパス0.5mg錠です。
「誰か相談できる人がいるのは大事ですよ」と言われ、
ほんとうにそうだなとしみじみ思った。
病院に行く前日に友人が家を訪ねてきてくれて喋ったらほんとうにすごく救われたから。
友人の存在を大事にして、ネット上での貴重な人間関係も大事にして、
心理士さんに相談できる状況も作っておいて、
お薬もいざという時のために手元に置いておいて、
そうやって自分を守るようにしたい。
そう思った。
その病院のすぐ近所に、精神病を抱えている人たちをスタッフとして雇って運営されているお店があって、そこでランチを食べることにした。
そのお店のスタッフの人に久しぶりに逢って「今度ここでなにかの時に踊ってください」と言ってもらってとても嬉しかった。
そのお店にあった本が日記のタイトルの
「安心して絶望できる人生」(向谷地生良 浦河べてるの家 著)
でした。
前から気になっていた本で、この機会に買ってみることにした。
精神病を抱えた人たちの起業についてのドキュメントのよう。
「期待されない会社づくり」など興味深い起業理念があるよう。
ゆっくり読んでみようと思います。
いま、枕崎の超イケてるバンド「すんクジラブラザーズバンド」の方たちとやり取りをしています。
新酒祭りという枕崎でのお祭りに出演されてるのをみたのですが、
枕崎弁で繰り出す超オモローで素敵な世界に一撃でやられて即ファンになって今度メンバーの方にお逢いしにいこうと。
呆けすとらや私の大学時代のゼミ教官に通じるなにか、があるような予感がしています。
もし機会があれば少しでも舞踏で共演させていただければいいな・・と勝手に夢を描いています。
いい繋がりになっていくといいな。
こんな長い文をさいごまで読んでくださったみなさん
ありがとうございます
できるだけのことをして、いまを乗り越えたい。
今日を生きていこうと 思います
道化師の存在の面白さについては大学の頃から興味があった
シェークスピアの戯曲などで登場する道化師。
王の傍に常にいて、くだらないことや失礼なことを平気で喋りまくりながらある種の真実を突く言動をするという役割。
wikipediaで調べてみたら
『本来のピエロは、コメディア・デラルテに登場する、顔は真っ白で哀愁を漂わせ、好きな人を殺してしまうことでしか愛情表現できないキャラクターが起源とされる。』
と書いてあった。
わたしもある種の道化師なのであろう
目的の為ならば様々な言葉を、踊りを繰り出してみせよう
ただ、それが真実に触れる為であることを一瞬たりと忘れることなく
踊り続ける のだ
鹿児島に帰ってくるのは6月10日くらいの予定です。
夫がキャラバンで新潟に来て出発する5月27日くらいまで新潟にいます。
行ければ山梨の田中泯さんの桃花村にも行きたい。
長野の友達にも逢えたら逢いたいなぁ。
そして6月7日頃に東京で夫と再び合流予定。
その前後に駒場の日本民藝館に琉球の織物展見に行ったり、
東京の友達に逢いに行ったりできたらいいな。
6月8日に羽田発北九州空港行きのスターフライヤーに乗る予定です。
北九州でも誰かに逢いたいと思う。
そして6月10日には鹿児島に帰り着きたいところ。
そんな予定なので、お逢いできる方がいたら連絡もらえたら嬉しいです。
日々、感謝を忘れず、
落ち込むことがあっても、
「まぁ、なんとかなるさ!」とおおらかに思いながら、
毎日を大切にしてこられたらと思っています。
今日も一日がはじまる
行ってきます!!
やっと答えのようなものがみえたように感じた。
答えというか、『夢』のビジョンみたいなものがみえた気がした
母親としても中途半端で、
踊り手としても中途半端で、
妻としても中途半端、
染織りを始めたいけれど不器用、
そんなわたしをこれまで自分でさげすんできた所があったのだと思う
だけど実は、「母」も「踊り手」も「妻」も「染織家」もただ人を分類分けするためのカテゴリーに過ぎなくて、
わたしは『まさやん(masayang)』という道を行くしかなくて。
そして降りてきた言葉は 『光と闇を織る者』
ただそのために日々歩いていこう、
誰かにとってはなはだ中途半端なやり方にしか見えなくても
ちゃんと自分に道がみえていれば、歩んでいける
それがみえたら、これまで胸の中にずっとつかえていて息を吸いにくくしていたものがすっかりなくなっていた
吸気がすーっと胸の中に入っていく
この感覚は初めてだった
もしかしたら生まれて初めてかな
昨日に比べるとまた吸気の通りがまた少しわるくなっている
不安が生まれたり、自信が揺らいだりしてくるから。
でも前ほどじゃない
この感覚を忘れないように書き留めておきたくて書いています
ここからは「自分の道をみる場所に戻ること」
「自分の中心に常に戻るようにすること」
「力が入って固まっているからだの力を抜いていく方法を探ること」
に入っていこうと思います
交換稽古というのは、参加者がそれぞれなにか自分が教えられるもの・もしくは提案できる練習法を持ち寄ってそれらを順番に一緒に稽古してみる というもの。
踊りにかぎらず、おしえられるものならなんでも*
mixiには福岡の人を中心とした交換稽古のコミュニティもあってわたしも入っています。
交換稽古は「舞踏研究会~わたしの踊り研究所~」のコンセプトにも合っている!ということで、
舞踏研究会会員のベリーダンサーまりありあさんと私の二人でとりあえず一回目をやってみることにした。
娘も連れていきました。
昨日使った部屋は鏡張りの20畳ぶんくらいかな?のゆったりした広さ。
鏡があるとベリーダンスの技を教えてもらうのに便利でした。
ちなみに舞踏の稽古には鏡は必要ないと私は思っています。
田中泯さんが「鏡は自分の中に持つべきです」と言っているインタビューを読んだことがあり、その言葉を受けて納得したので必要ないと私の中で結論づけています。
鏡についてのことで脱線しますけれど
福岡での交換稽古の集まりは、
舞踏家の玉野弘子さんが「稽古はひとりではできないよ。鏡がないから」とおっしゃった言葉に端を発しているそうです。
「他人を鏡とする」ということだと思われます。
わたしは直接その言葉を聞いたのではないですが、「稽古はひとりではできない」という言葉はそのままの意味ではなく「ひとりでは展開がない」というような意味なのだろうと思いました。
田中泯さんの言葉の真逆を行っているようでそれもまた真だなと感じていて、
「自分の中の鏡」をみつめる時間も大事にしつつ、
それをもっていってはじめてうつしうる「他人に反映する自分をみる鏡」をみる時間をもつことも大事なのだと考えています。
だから、交換稽古の楽しさにただ溺れてはいけなくて、
「ひとり」の「わたし」をみつめつつその場に向かうべきなのだと思う。
基本は「ひとり」、
そしてひとと「出逢う」ことで展開が生まれる
そういう行き方を探りたいと思う。
そして昨日の交換稽古の話に戻ります。
まりありあさんはベリーダンスの初歩やヨガのストレッチをおしえてくれました。
ヨガのストレッチは座って呼吸のリズムに合わせてからだを動かしていくもので上から下へ・下から上への循環が感じられるもので覚えやすく、これは自分で家でもやろうと思えるものでした。
ヨガって気持ちいいんだな、ヨガにもふれてみるかーと思えたのもよかった。
ベリーダンスは基本になる肩・手の動きや、腰の動きに連動する足の動きについておしえてもらった。
腰の側筋や肩の筋肉など普段あまり意識して使わない筋肉をこまかく意識することをおしえてもらって、「じぶんがまったくからだを使いきれてない」ことがよくわかってよかった。
ベリーダンスの腰の動き、これも普段はあまりしない動きだ。
普段しない動きを「発見」していくこと これが自分の即興の踊りにどうつながっていくのか それを今からみつめていきたいと思う
そしてわたしは虫丸さんのWSで習ったことを伝えてみた。
まずは基本の立ち方・そして吸って臍下丹田に落として止めて吐くという基本の呼吸。
そして呼吸に合わせて左右や前後に揺れていく展開、上下に行く展開。
そして呼吸歩行、そして歩行しながらエネルギーの塊がぶつかってくるという展開。
20分位だったのだけど駆け足でここまでやってみた。
やってみて、自分がもっとひとりでじっくり稽古をして「自分のことば」で場をみちびけるようにならなければいけないなと感じた
いまはすべて虫丸さんの言われたことを思い出して真似しているだけだから きちんと消化しなくては
終わったらさわやかで幸せな気持ちになった
まりありあさんが舞踏研究会を公民館講座に登録してくれたため、
町の施設が無料で使えるので、これからも継続して交換稽古していきたいと思ってます
これからは都合しだいで夕方~夜にもやるかもしれません
参加したいひとがほかにもいれば時間や日にちを相談して調整したいとも思っています。
おもちゃを持ち込んで部屋のはしっこに子どもスペースを作るのもいいな。子ども達もいっしょに稽古するならそれもまたたのし^^
興味をもったそこのあなたもぜひ来てみませんか!!
次回は来週になりそう*
次が楽しみです!
