少年と悪
少し前にNHKの「爆笑問題ニッポンの教養」という番組で
ロシア文学の紹介者の亀山郁夫さんがドストエフスキーについて爆笑問題と語り合うのを観てとても感銘を受けて、
このことについて書かないといけないなと思っていました。
そんな昨日、本屋に入ったら二冊の本と出遭った。
まず目に入ったのは
「福田君を殺して何になる」という本で、
光市母子殺害事件の事件当時未成年だった福田被告が書いた手紙などが取り上げられている内容だった。
さっと目を通しただけだが、
本が問いかけている
「この未熟な青年を殺すことが根本的な問題解決なのか?」
ということは胸にひっかかり、
また書店を歩き出したらまた一冊の本が目に留まった。
一家四人惨殺事件を起こした当時19歳だった被告(今は死刑囚)のドキュメンタリー「19歳」という本だった。
この死刑囚の起こした事件は、
強盗目的で侵入した家で老女や幼女を含む四人を少女の目の前で殺してしかもその少女をその場で犯すという酷いもので、
捕まった後もその男は全く反省のない態度だったという。
「読みたくない」という気持ちがありつつも、
その本に引き込まれ大半の内容を立ち読みした。
その男の生い立ちが特に気になったからだ。
その男は遊び人の父親の借金や暴力が原因で両親が離婚し夜逃げをしたり、貧乏が原因でいじめられたりしていたという。
しかし男の弟は真面目に生きているし、
もっと厳しい状況の中で道を外れず生きている人はいるのだから
生い立ちのせいには出来ないと本の中で著者も男に伝えている。
その通りだと私も思う。
しかし生い立ちを見ていると何箇所か道を外れるターニングポイントが目に留まった。
付き合っていた恋人との仲を親に引き裂かれたこと。
「家に電話はないです」と言って教師がクラスの皆と笑ったエピソード。
それらは些細なこととも言えるかもしれないが、
もしそれらの場面で誰か男を助ける人間がいればなにかが違ったのかもしれないと感じるものがあった。
これらの事件は本当に酷いもので、
もし自分が事件の関係者だったら、こんな本は見るのも嫌だろうし、
被告人は死刑で当然だと断じるに違いないと思う。
そうした遺族の方々の感情に同調したくなる自分の感情を抑えながら、私は問題の根本をみつめてみたいと感じた。
ドストエフスキーの「罪と罰」は、
引きこもりがちな苦学生のラスコーリニコフが
「天才は正義を実現するために犯罪をおかす権利がある」
という考えに捕われて金貸しの老女とその妹を殺すというストーリーだ。
「自分はほかの人間より多くのことを許された人間なんだ」という一文もある。
ドストエフスキーの描く時代は農奴開放後で混沌とした時代。
開放されたことで自由になったが
『自由は金がかかる』という事実があり、
すさまじい犯罪が起こってきだしたのだという。
その時代のロシアの広漠とした大地と現代のネット社会はどこか重なると亀山氏は指摘する。
「秋葉原通り魔殺傷事件の青年を法は裁けますか?」とも亀山氏は問題提起した。
「おわかりになりますか?これ以上行き場がないってことがいったい何を意味するか?」(罪と罰)
「罪と罰」のラストで、ラスコーリニコフは彼が汚したよごれた大地に口づけをして救われる
還ることが出来る大地を見出だすことができれば人間は救われるのかもしれない。
ただ、大地を見出だせない、還る場所も全くない人間は他人と繋がることを放棄せざるを得ない状況に追い込まれる。
最近近所に自然花(じねんか)という子育てサポートスペースが出来て、
そこの人達と親しくさせてもらっている。
自然花のスタッフの方達は児童養護施設で長年働いてきた経験があって、その当時の話を聞いたことがある。
児童養護施設に来る子ども達は家庭が崩壊して最後の行き場所としてそこに来ていて、
スタッフさんは昼夜を問わず子どもの脱走などで呼び出され、
ナイフを向けられた経験もあるという。
子ども達がそこまで追い詰められる前に救う場をつくりたいという志で自然花はつくられたのだそうだ。
夫が代表をしているNPOのやっていきたいことは
自然花と重なる部分が多いので
色んなことを協力してやっていきたいと思っています。
そして、仕事のない地方に新しい名物や雇用を作り出したり、
物々交換のネットワーク作りや「仕事と宿・食事を交換する働き方」なども模索したりしていきたいと思う。
機械のように使い捨てにされるのではない、人間として働ける道を拓いていきたい。
修学旅行の受け入れで中高生に触れる機会も大事にしていきたい。
その一日の経験が彼らの何かを変える可能性があるかもしれないのだから。
ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで主人公アリョーシャは 叫ぶ
「もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。」
彼らの心にそういうものを残す可能性に賭けたいし、
例えドストエフスキーに遠くおよぶことなどなくても
少しでもわたしにできる表現方法 たぶん踊ること で「闇の中にある光」を解き明かしていきたい。
それがどんなに小さな一歩であっても。
そんな風に、思う。
ロシア文学の紹介者の亀山郁夫さんがドストエフスキーについて爆笑問題と語り合うのを観てとても感銘を受けて、
このことについて書かないといけないなと思っていました。
そんな昨日、本屋に入ったら二冊の本と出遭った。
まず目に入ったのは
「福田君を殺して何になる」という本で、
光市母子殺害事件の事件当時未成年だった福田被告が書いた手紙などが取り上げられている内容だった。
さっと目を通しただけだが、
本が問いかけている
「この未熟な青年を殺すことが根本的な問題解決なのか?」
ということは胸にひっかかり、
また書店を歩き出したらまた一冊の本が目に留まった。
一家四人惨殺事件を起こした当時19歳だった被告(今は死刑囚)のドキュメンタリー「19歳」という本だった。
この死刑囚の起こした事件は、
強盗目的で侵入した家で老女や幼女を含む四人を少女の目の前で殺してしかもその少女をその場で犯すという酷いもので、
捕まった後もその男は全く反省のない態度だったという。
「読みたくない」という気持ちがありつつも、
その本に引き込まれ大半の内容を立ち読みした。
その男の生い立ちが特に気になったからだ。
その男は遊び人の父親の借金や暴力が原因で両親が離婚し夜逃げをしたり、貧乏が原因でいじめられたりしていたという。
しかし男の弟は真面目に生きているし、
もっと厳しい状況の中で道を外れず生きている人はいるのだから
生い立ちのせいには出来ないと本の中で著者も男に伝えている。
その通りだと私も思う。
しかし生い立ちを見ていると何箇所か道を外れるターニングポイントが目に留まった。
付き合っていた恋人との仲を親に引き裂かれたこと。
「家に電話はないです」と言って教師がクラスの皆と笑ったエピソード。
それらは些細なこととも言えるかもしれないが、
もしそれらの場面で誰か男を助ける人間がいればなにかが違ったのかもしれないと感じるものがあった。
これらの事件は本当に酷いもので、
もし自分が事件の関係者だったら、こんな本は見るのも嫌だろうし、
被告人は死刑で当然だと断じるに違いないと思う。
そうした遺族の方々の感情に同調したくなる自分の感情を抑えながら、私は問題の根本をみつめてみたいと感じた。
ドストエフスキーの「罪と罰」は、
引きこもりがちな苦学生のラスコーリニコフが
「天才は正義を実現するために犯罪をおかす権利がある」
という考えに捕われて金貸しの老女とその妹を殺すというストーリーだ。
「自分はほかの人間より多くのことを許された人間なんだ」という一文もある。
ドストエフスキーの描く時代は農奴開放後で混沌とした時代。
開放されたことで自由になったが
『自由は金がかかる』という事実があり、
すさまじい犯罪が起こってきだしたのだという。
その時代のロシアの広漠とした大地と現代のネット社会はどこか重なると亀山氏は指摘する。
「秋葉原通り魔殺傷事件の青年を法は裁けますか?」とも亀山氏は問題提起した。
「おわかりになりますか?これ以上行き場がないってことがいったい何を意味するか?」(罪と罰)
「罪と罰」のラストで、ラスコーリニコフは彼が汚したよごれた大地に口づけをして救われる
還ることが出来る大地を見出だすことができれば人間は救われるのかもしれない。
ただ、大地を見出だせない、還る場所も全くない人間は他人と繋がることを放棄せざるを得ない状況に追い込まれる。
最近近所に自然花(じねんか)という子育てサポートスペースが出来て、
そこの人達と親しくさせてもらっている。
自然花のスタッフの方達は児童養護施設で長年働いてきた経験があって、その当時の話を聞いたことがある。
児童養護施設に来る子ども達は家庭が崩壊して最後の行き場所としてそこに来ていて、
スタッフさんは昼夜を問わず子どもの脱走などで呼び出され、
ナイフを向けられた経験もあるという。
子ども達がそこまで追い詰められる前に救う場をつくりたいという志で自然花はつくられたのだそうだ。
夫が代表をしているNPOのやっていきたいことは
自然花と重なる部分が多いので
色んなことを協力してやっていきたいと思っています。
そして、仕事のない地方に新しい名物や雇用を作り出したり、
物々交換のネットワーク作りや「仕事と宿・食事を交換する働き方」なども模索したりしていきたいと思う。
機械のように使い捨てにされるのではない、人間として働ける道を拓いていきたい。
修学旅行の受け入れで中高生に触れる機会も大事にしていきたい。
その一日の経験が彼らの何かを変える可能性があるかもしれないのだから。
ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで主人公アリョーシャは 叫ぶ
「もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。」
彼らの心にそういうものを残す可能性に賭けたいし、
例えドストエフスキーに遠くおよぶことなどなくても
少しでもわたしにできる表現方法 たぶん踊ること で「闇の中にある光」を解き明かしていきたい。
それがどんなに小さな一歩であっても。
そんな風に、思う。
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