2009年10月アーカイブ

新酒祭りで踊ります!

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きょう、枕崎市の薩摩白波明治蔵での新酒祭りに出演します。

すんクジラブラザーズバンドへの参加で18:30からです。

すんクジラに出会ったのは一年前の新酒祭りでした。
あの時にファンになって同じステージに上がることを夢みて、今年は自分も参加することになって‥
緊張とワクワクで胸が苦しくなってきます

振る舞い酒が呑めてステージ企画も盛り沢山の愉しいイベントですよー

今日は地場センター前の港での港祭りで塩出店もします。
こちらも是非お立ち寄りください☆


最近イベント目白押しで,日記に書きたいことも沢山たまっていておいてきぼり。

ドラムサークル鹿児島に行って即興セッションで踊らせてもらった話。 

パウロ・コエーリョ著「悪魔とプリン嬢」を読み終わったのでその感想。

など。

感想だけはなんとかそのうち書きたいです。

今日のライブはポーランド民謡風?のマラゲーニャ(国ちがうけど自分的に勝手にカルメンのイメージ)という曲とヨイトマケの曲で出演します。
ヨイトマケでは、日本舞踊の先生と共演なので「先生が説明踊りで母の役をするから、まさやんは母の情念の踊りをして」と言われています。 

小道具をあれこれ調達して、行って来ます!!
 
 

欲望や悪は宿命づけられている部分があるように思う。

以前、「人間は『これがもっと長く続いて欲しい』と願った(もしくは執着した)ために猿から人間への一歩を踏み出した」んじゃないかと勝手に考えたことがあったのだけれど、
その欲望と踊り続けるのが人間の宿命なのか?

一方で、回避できる悪もある気がする。児童買春するのはやめとこうとか。
そういうのは選択できる余地がある可能性が高い。

選択できる状況なのか、
ほかの選択肢があるかどうかはとても重要な点だろうなと思う。

逃げ道のない状況は人間を「それしかない」と追い込むので。

「違いを見分ける賢さ」
その賢さを是非得たいところだ。

弱っちい生き物である人間には、実はそれが唯一の宝刀なのかもしれないと思った。

*今回の記事は友人の舞踏家美希さんから意見を加えて作成した文章になっています。

 

欲望と悪

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皆既日食.jpg
最近の考え事が集約されてきて、「欲望と悪」について考えてみようかという所にいます。

いま私は「人生でなにをしていきたいか」ということが大分明確になってきていると思うけれど、なにか落ち着ききれない部分があり達観には到らず、「これはなんだろう?」と感じていました。

最近、音色について考えていたためにお経に興味を持ち、兼ねてから気になっていた観音経についての本や、瀬戸内寂聴の般若心経についての本を読んだりしていたのですが、日常に仏教的価値観を取り入れるのはどうも腑に落ちず、寂聴さんの本は読むのを中断してみました。

やっぱりあまりに理想主義なものはまだ若い私には早いのか?と思い、
いつものように江國香織やよしもとばななや川上弘美や山本文緒を出してきて色々読んでいたけど、好きだけどやっぱりどうも腑に落ちない部分が残って着地できない。

とりあえず瀬戸内寂聴さんの若い時の小説でも読んでみるかと思いつつも、図書館の本の中であてもなく漂流してみてました。

そして家の手持ちの本の中からふと村上龍の「イビサ」が出てきて、
「あぁ今までこの小説とは向き合うのを逃げてたんだよな‥」と思い、でもいま自分がひっかかっている部分はこの小説のテーマに近いものなのかもしれないと思いました。

人間の欲望は時に醜悪で目をそむけたくなる。
だから「自分はそこから既に下りています」という地点に立っているような顔をしたくなる。
でも生きている限り自分はあらゆる欲望と無関係ではいられない。

人間には三大欲というものがあって、生命力と欲望は切り離せない関係にある。

ヤン・ソギルの「闇の子供たち」はタイの幼児売春を生々しく描写した作品だが、私はこれを初めて書店で読んだ時吐き気がした。欲望を発露させる人間があまりに醜悪で、出来ればこの本はみなかったことにして逃げ去りたかった。
でも逃げる訳にいかず、その本を買った。でもいまだにちゃんと全部読めていない。

イビサでも登場人物はあらゆる欲望に走り、最終的に手足を切断されるような事態に向かう。
その描写が生々しく目をそむけたくなるのだ。

だけどこれは現実の一側面だということを知っているからこそ、これほど吐き気がするのだ。

例えば欲望の揺れ幅があるとして、極端な欲望が幼児買春だったりドラッグや虐殺だとして、一般的とされている欲望が衣食住欲や合意の元のセックス(風俗を含む)、低い欲望だが美しいとされているのがお釈迦様が悟りを開く前に食べたミルク粥や川での行水であるとする。

多くの人は極端な例を悪とし、一般的な例以下を善なる欲望とするだろう。

しかしこれらには無数の「境界例」が存在する。

例えば、
・風俗で本番NGなのにちょっと無理やりやっちゃった
・恋人だった人にふられてつきまとってしまう
・妻子ある人を好きになる
・食べ残された「まだ食べられる」物が大量に捨てられる
・部下をきつく叱ってストレス発散する上司
・いじめを見てるけどみないふりしている人
・動物実験
・好色で金持ちの僧
・ロリコン系エロマンガやビデオが好き

これらになってくると人によって微妙に意見が違ってくるものだと思う。

そして極端な例と思われる次元でもやはり境界例が存在するのだ。

例えば
・貧しさと絶望に追い込まれ幼児売春のブローカーをしている人
・虐殺を自分はやらないけどそばで見ているひと(「イビサ」でも女性の体がチェーンソーで斬られているのを憂鬱そうに眺めている男が「お前にはわからないかも知れないが、こういうヴィデオが世の中を救ったりするのだ、オレは不愉快だが多くの人々を救うためだからしょうがない」と言っている)
・戦争で嫌々ながら敵を殺したり、死にかけの人を置き去りにする
・自爆テロで敵国の兵士を殺す

これらはどうだろうか

悪の基準は絶対的ではなく相対的なものなのだと思う。

例えばわたしが子どもにたこさんウインナーを作る行為は、
子どもが喜ぶから善だと言うひともいれば、
ウインナーは体に悪いから悪だと言う人もいるだろう。

状況によって善悪の基準はたやすく変わるのだ。

手元にいまパウロ・コエーリョの「悪魔とプリン嬢」という本があって、
「条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす」
という考えを持った旅人が描かれているらしい。

この本を読んでまたじっくり考えてみようと思っている


これらの主題にたどり着いたのは、今度参加するすんクジラブラザーズのライブでカルメンの曲があるからよろしくねー
と言われたのもきっかけのひとつ。

以前読んだアンナ・カレーニナやカルメンのように「恋に生きた女」は最終的に死に至る。

傲慢と純粋と美もまた紙一重なのだろう


最終的には「わたしだけの基準」を見出だすしかないのだろうとも思うけれど、境界で揺らぐ人間のメカニズムについてじっくり考えていってみたいと思います。

このテーマを考えるのに役に立ちそうなオススメの本をご存知のかたはおしえてもらえたら嬉しいです。

サドとバタイユはチェックしようかなぁと思っています。

ご意見もいただけたら嬉しいです


写真は2009年7月22日の皆既日食の写真です*
 特に本文の内容とは関係ありません^^;
(でもこの写真を載せたいと思ったのはなにか直観的に関係しているのかも。
最近神秘思想家のグルジェフの思想に触れたからかな?)
 

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