無名の女が、いま土を耕すということ

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ゴンギツネさんに紹介してもらった本

「洟をたらした神」吉野せい 著

について書こうと思います。

実をいうと感想がまとまっていません
でもまとめることを諦めました
きっと答えが出るのはずっと先になると思ったからです
仕様がないので、どんな風に悩んだかについて書こうと思います。

この本の著者は詩人の夫とともに開拓農民として生きてきて
七十歳をこえてから筆をとった女性です。
本には15の短編が入っています

ひとつ短編を読むごとにずしりと余韻がのこり次の短編にすぐに移ることができませんでした
今まであまり他の本に感じたことのない読後感でした
(いくつかの短編に対してだけですが)

純粋に感動した部分はたくさんあるのですが
本の内容に対して詳しい感想をいうのはやめます

読んで考えたことを書きます

この本を読む前にわたしが知りたいと思っていたことは

「思い通りにならない土を耕す人の自我とはどんなものか」
「じぶんを個としてうちださず生きた女性の行く先」

のようなことだった

しかしこうしたことは本を読んですぐに答えが出ることではなかった。
やはりわたしが七十にならなければわからないことなのかもしれません

ただ、この本を読んでわかったことは、
ただただ土を耕し続ける人生を生きても目が透き通っているひとはいるのだということだった


土を耕すこと について思うこと

わたしはそのうち土を耕して暮らしたいなと思っています。
それはお金にたよらず暮らすにはそれがいいなと考えたというのもあるし、
日本はたぶん貧しくなるのは時間の問題で、
自分で食料を得る手段を確保することが必要だろうと思っているからというのもあります。

しかしわたしは消費社会と縁を切ることはできません

最近、舞踏をはじめた土方巽という人の本も読んでいるのですが、この人とは生きた時代がちがうのだからそれをどう受けとめるべきか悩みます。

土方巽はわたしの祖父と同じ年に生まれた人です
秋田の田舎に育った土方巽と、生きた原風景はかなりちがう

わたしの家は兼業農家でお金はあまりない家庭
高卒で若くして結婚した両親・そして祖父が骨身を削って働いて育ててくれた
だからわたしには土を耕す人のことも少しわかる
だけどわたしの生きてきた日々は
ファミコン・エアコン・携帯・インターネット・テクノ・コンビニ
などと関わらずにはいられないものだった

わたしの師匠が以前言っていたけれど、舞踏はその日の朝に食べたものもすべて出てしまうもの なのだ

だからわたしは土方巽とはちがう原風景を抱えて踊ることと向き合わなければならない
吉野せいさんとはちがう背景をもって土にたどりつかなくてはならない

まだまだ答えはでないけど
この課題とじっくりむきあっていきたいと思う

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このページは、masayangが2007年2月 9日 06:54に書いたブログ記事です。

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