田中泯さんのHPにあった石原志保さんの「自分の踊りをBUTOUとは、考えておりません」から始まる言葉を読んだ。http://
わたしも最近は自分のプロフィールにあまり「舞踏」という言葉は使わないようにしている。私が影響を受けた踊り手は田中泯さんを含め、あまり「舞踏家」と名乗っている方がいない。だから私も「即興舞踊」という言葉を使ったりしている。でも、「舞踏」という言葉自体は好きなのでちょっと未練もある。
私もやはり土方巽からの系譜を継いでいる師匠に師事した身として、その系譜を継いでいる・継ぎたいという気持ちがあるから未練があるのだろう。ただ、そのジャンルの枠にはまっていたいとは思わない。境界線上にいたいから
しかし、土方巽から始まった「舞踏」の流れはそもそもジャンルの破壊をおこなう類のものだったのだと思う。ただ、時間の経過と共にジャンル化してしまっただけで。おそらく「舞踏」という言葉は誤解を招きやすい用語になってしまったのだろうと思う。素直に「踏む」という字は好きなのだけれど難しいな
話は少しずれるけれど「踊り子」という名乗り方も結構好きだ。ただただなんの肩書きも持たない「踊る人」でありたいという気持ちと共に、「芸人」の一端でありたいという気持ちも少し持っているからだと思う。場を賑やかすためのやや職業的な「踊り子」の役割も時にはにないたいと思っているのだ。
わたしは「舞踏家」と名乗る師匠に師事し、「舞踏家」以外の色んなダンサーにも影響を受け、「即興舞踊をしています」と澄ましてみたり、時に職業的「踊り子」であり、ただの踊る野生としての紫川原人であったりもする。揺らいでいる踊り手だ。
今のところ、「踊るまさやん」であるということだけは間違いないのだろうと思う。
作品作りもにらみ、これから毎日少しでも踊ったらメモを遺していこうと思います。
続けるため意味不明な一行しか書かなかったりします。
一週間単位でアップしていこうと思います。
10/20
与謝野晶子が染みこんでいた
じわじわっと染み出してきた
10/21
踊りはいまへの没入
上昇して硝子に絡み付きながら溶けてラジカセを抱き抱える
こう動こうと決めて動くんじゃない
いまの中にどんどん入っていく
経過はただ、いまへの没入の結果
そのために繊細さと安定感を欲する
目的が先にあってからだがついてく
ついていけず露呈するからだはそれはそれでありのまま
寄り添う一時がさざ波のように波だって肌にその感触の余韻を遺しながら静かに引いていく
ひとり立っているわたしがいる
音楽にノル気力などない
それでどんどん欠落を加速してどんどん振り落としていくとからだが動いてくる
脳みそのない生物の反射行動のように
降り続け降り続け振動し続け いつかからだに輪郭があらわれてくる
魂なき人間も踊る 魂があとで込められる
東京FMラジオで毎週土曜朝にやってるゴンチチの「世界快適音楽セレクション」という番組で流れてた、ハイチの「ZOMBIE」という曲で台所で踊った。
止まることなく動き続ける 流れ続ける
止めることは出来ない
前後運動が手にも伝わり足にも伝わっていき、回転になったり波になったり、少しずつ運動の形を変えながら不思議な螺旋を描きだしていく
小さくなったり大きくなったり
終わるのは死ぬ時
UTADAのアルバム「This is the one」を10曲目からかけて踊った。
作品をつくることに決めた。
わたしの胸は怖れで震えている。
でもそれをぶち破ろうと思う。
ぶち壊して作り上げた先になにがみえるのか全く予想がつかないけれど行ってみるしかない。
踊りと共に心中する覚悟だ。
新しいステージが始まった。
人間が美を求めることについてどう考えるべきか。
ネアンデルタール人が墓に花を供えたことについてわたしはよく考える。
美の観念も後天的なのかな。
破壊に美を感じる人も多いから定義によるのだろうけれど。
私は踊る時に舞台上に花を供えるというモチーフを使うことが多い。
「花」は大切なテーマだ。
大野一雄や世阿弥の影響も受けていると思われる。
花はなにかへの思慕の象徴でもあるし、一瞬匂い立ちて滅びゆくわたし自身でもあるのだろう。
現実との折り合いの中で、愛する人たちと別れ遠く離れたりする。
もう会えなくなった人もいる。
なるべく策を講じてきた。でも負けてきた所もやはりあった。
その中でも全ては放棄しない。
既成概念を一旦外し新たな道を探る。
「私は死なない」。
それだけは9年前の公演「なにもないねこ」で確かめたのだ。
先日、武道家・日野晃さんの身体表現ワークショップを受けました。
日野晃氏は世界的振付師ウィリアム・フォーサイスと共に創作したりもしてる方。
日野さんは物凄く優しい方で驚き感動しました!
【日野晃さんにした質問】
私「よく知らぬ人と向き合う時に起こる恐怖感にどう対処したら?」
日野氏「恐怖感は頭の中で作り出した幻想。それは存在し無い!」
私「相手が嫌なこと避けたくて遠慮が出てしまうのですが」
日野氏「他人が何を嫌かなどわかるはずない。気にしても仕様がないやろ。」
日野晃さんと私のやり取りを見ていた人が後で
「日野先生は著書で『相手に本当に嫌われてる』場合は察知しないと危険だが、
そうでなければまずは自分から働きかけてみることが必要だ、って書いてましたよ」と教えてくれた。他人と踊るのが苦手な私の頑なだった部分が解けた気がした。
日野晃さんは「他人の考えてることなどわからない」と私に言ったが、ワークショップでは他人と密な接触を求められる。
目をひたとみつめたりぴたりと寄り添い、一瞬でも気を抜くと足元掬われる。
「頭で考えずに意識を研ぎ澄まして他人を感じる」ということなのかもしれない。
武道家・日野晃WSで、二人組で腕をねじ上げられたのを振りほどくワークがあった。
握られた箇所に力入れても振りほどけない。
力が届いた終点から回転をつけてほどくことで相手が吹き飛ぶ。これは頭で考えるとうまくいかない。うまくいく瞬間は思考でなく意識だけになる感覚。口で言う程簡単じゃない。
日野晃さんに「毎日同じ稽古か違う稽古かどちらがいい?」と問うた人いて
日野氏は「両方するのがいい。毎日胸骨操作等の中心軸となる同じ稽古やりながら色んな稽古もやっていく。それぞれの人に違う道筋ある。正解はない。」
日野氏が流派やジャンルを超えた存在だからこそ言えることなのだろう。
日野晃WSは受けに来る人の種類はコンテンポラリー・バレエ・武道・舞踏・下半身麻痺で車椅子の方・身体表現に興味ある方等多伎に渡る。
世界中色んな場所でも行われているそう。
「対抗しないこととしての武道」という日野氏のメソッドが広がる意味は大きいと感じる。
武道家・日野晃の「「武道身体」で生きる!対人技の真髄」を少しずつ読んでいる。
日野氏は語る。
「強くなる」ことが武道の目的ではなく強くなれるはずもないと。
しかし「強くなりたい」と思った自分の内面に潜む問題を問題として捉えた時、自覚された時、武道はその手段として姿を見せるものなのだと。
「自分という人間の精神的・心理的・生理的脆さ、その影響受ける思考や運動能力、そしてそれらを統括する自意識レベルを丸裸にする為にある武道。それは自分自身の思考回路の作り替え。極端に言えば、見栄や体裁、虚栄心、固定観念等が作り出す思考の壁を壊すところから始めなければならない。」日野晃
日野氏のメソッドをもっと深く体感していってみたいと感じている。
6/17枕崎サザンヒルズでのスペイン音楽ライブ出演時の
写真をいただいたのでアップします☆
普段はスポーツジムしてるスペースが会場で新鮮でした。
アランフエス協奏曲という曲で踊った時の写真です。
COCCOの新曲「ニライカナイ」の心を継ぎたく思い、
近所で採取した赤い花びらを撒きながら踊りました。
後で沖縄出身のスタッフに聞くとその花はデイゴの仲間だったそうです。
導かれたようで不思議な気持ちでした。

出演者や内容は前回と大体同じ。
といってもライブですからなにがあるかはわかりません。
枕崎駅近くのサザンヒルズにて18時スタートです!
私はまたマイルスデイビスのアランフエス協奏曲で踊ります。
昨日COCCOの新曲「ニライカナイ」の映像を見たので赤い花を持って踊ろうかと考えてます。
前回は紫陽花を持ったのだけど。
いい花がみつかるかな。
今日探してみます。
ひとりの人間のなかにある「世界」
そこには善も悪も強さも弱さもあって、
わたしの中にはたくさんの存在が共存している
「上釜理恵子SPAIN&ちゃんサネ♪枕崎 いどご同士でショー」
に出演します。
14時スタートです。
枕崎のエンターテイメントバンド・すんクジラブラザーズのライブに加えて、
バンマスのちゃんサネさんのいとこの上釜理恵子さんによる
写真展、スライドショー、ヨガ気功などもある盛り沢山のイベントです♪
上釜さんは普段はスペイン・バルセロナ在住の方だそう。
わたしも観客としても楽しみにしているところです。
今回、「素顔で踊ってみませんか」
と提案を受けて白塗りなしで踊ってみます。
意外と珍しいことなのでどう転ぶかな
そしてアランフエス協奏曲で踊ることになりそうです。
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アランフエス協奏曲は、スペインの古都アランフエスが作曲当時のスペイン内戦で被害を受けたことから、
作曲家のホアキン・ロドリーゴがスペインとアランフエスの平和への想いを込めて作曲したと言われていて、
第2楽章は病によって重体となった妻や失った初めての子供に対する神への祈りが込められているとも言われているのだそうです。
それを知って、今の想いに共鳴するものを感じました。
先月のかつお祭りで共演させていただいた和太鼓の平田裕貴さんもまた出演されるようでそれも楽しみ。
と、書きつつも今回ライブ前の『いまの自分確認作業』がまだ十分ではないので、
今夜ひとりで向き合ってみます。
あす、お逢いできると嬉しいです!
8年位前に大野一雄さんの横浜の稽古場での大野慶人さんのワークショップに参加して御姿を少しみかけたことがあった。
もうその頃大野一雄さんは要介護状態だったけれど前日にワークショップに行った美希さんは踊っている所を観られたと喜んでた。
大野さんの著書「稽古の言葉」を読み返していた。
たくさんの言葉がからだに響くなかで、この言葉に目が留まった
『ラブレターを書く。
頭で書いたってだめですよ。
体全体で書く。
魂で書く。
何で書いたっていいんですよ。
恋人と、会話しながら。
書くときはそこにおるんです。
足で書いたっていいんでしょう。
ラブレターを足でもって書けたらずいぶんいいだろうと思うんですよ。
そんな踊り見たいですね。
何か知らないけれど気持ちが、ありがとう、何なのかわからないけれど、助かった、
こういう踊りのほうがいいと思うのです。』
大野一雄さんの言葉を、踊り 魂を
舞踏をするわたしは、わたしの踊りで、引き継いでいく
